小倉日明教会

『見えるようになる』

ルカによる福音書 6章 37〜42節

2022年5月1日 復活節第3主日礼拝

ルカによる福音書 6章 37〜42節

『見えるようになる』

【奨励】 川辺 正直 役員

伊藤亜紗、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 おはようございます。東京工業大学のリベラルアーツセンターで准教授をされている伊藤亜紗さんという方が書いた本に、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本があります。人が外界から得る情報の、8割から9割は目から入ってくると言われています。ということは、目が不自由だということは、この世界の情報をほとんど得ていないということになります。

 でも実際は、目以外の方法で世界をしっかりとらえています。却って目の見える私たちの方が、目に頼りすぎて「目で見たものがすべて」みたいに思っていて、見方が狭くなっているかもしれないのです。

 例えば「日本一高い富士山ってどんな形」って聞かれたら、皆さんは何と答えますでしょうか?私は「漢字の八の字みたいな、裾が広がった形」と答えます。しかし、目の見えない人にとっての富士山の形は「上がちょっと欠けた円錐形」というとらえ方が普通だそうです。

 違いは何でしょうか。目に見える者にとっては、ペラペラの平面にとらえがちですが、目の見えない人たちは立体的に物をとらえているのです。

 国立民族学博物館の准教授で全盲の広瀬浩二郎さんという方がよく用いるたとえに、大阪万博のシンボルである太陽の塔のたとえがあります。広瀬さんは「太陽の塔に顔がいくつあるか知っていますか」と尋ねます。目の見える人の多くは「2つ」だと答える。てっぺんの「金色の小さな頭」と胴体の中央にある「大きな顔」のことです。しかし、実は背中側にも「黒い太陽」と呼ばれる3つ目の顔があるのです。見える人は万博公園入口からの視点にしばられてしまうため、裏側の顔に気づかないのです。一方、模型で太陽の塔を理解している視覚障害者の方たちは、こうした誤認が起きにくいと広瀬さんはいうのです。模型はすべての面をまんべんなく触ることができるので、特定の視点にしばられずに、ものを立体的にとらえられるのだと言うのです。見えない人には「死角」というものがないのです。

 また、目が見える人は、見るのにふさわしい面を「正面」と呼び、その反対側を「裏面」と呼びます。「裏」という言葉には、時に反社会的な意味が加わることがあります。一方、目の見えない人の場合、こうした表と裏に分け隔てて見る見方はないのだそうです。目の見えない人にとっては、太陽の塔の3つの顔もすべて等価となり、すべての面を対等に扱うことができるというのです。

 不思議ですね。目に見える人の方が、本物が立体のものを平面のように見ており、見えていないものがあるのですから。さて、本日の聖書の箇所で、主イエスは、どうすればはっきり見えるようになるとおっしゃっておられるのでしょうか?今日は、そのことを皆さんと一緒に学びたいと思います。

聖書の文脈

 さて、ルカによる福音書の第6章20節から6章の終わりの49節までには、主イエス・キリストがお語りになった説教が記されています。この説教はしばしば、マタイによる福音書第5~7章の、いわゆる「山上の説教」と比べられて、「平地の説教」と呼ばれています。この「平地の説教」も「山上の説教」と並んで有名なものなのですが、本日の聖書の箇所にある、「人を裁くな」という聖句は、聖書の文脈を無視して、語られることの多い聖句の一つであると思います。それでは「人を裁くな」という言葉が語られたときの聖書の文脈とはどのようなものであったのでしょうか?まず、聖書の歴史的な文脈についてお話ししたいと思います。

 この「平地の説教」が語られた時代というのは、「律法の時代」であったのです。旧約聖書が最後に書かれてから、キリストが現れるまでの時間を「中間時代」あるいは「メシア待望の時代」と呼ばれます。「中間時代」には、ユダヤの民衆はローマの支配以外にも大変な束縛に遭っていたのです。それは、口伝律法と呼ばれるファリサイ的律法に縛られていたのです。ユダヤの律法学者たちは、人々が律法に違反しないように、律法の手前に、ここから先に行ったら、危ないよと、たくさんの細かい規定を作って行ったのです。この口伝律法が文書化されたものが、ミシュナと呼ばれるものです。このように「中間時代」に発展した口伝律法が、人々の生活の細々したことまでを縛っていたのです。従って、「平地の説教」は、主イエスが正しいモーセの律法の解釈について、教えて下さっているということなのです。

人を裁くな

 本日の聖書の箇所の37、38節の前半には「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とあります。ここで語られているのが、人を裁かず、罪人だと決めることなく、赦し、与える者となることなのです。ここで、「裁くな」と語られる時に、この「裁くな」という言葉の意味を皆さんはどのように捉えていますでしょうか。ここで使われている「裁く」という言葉は、ギリシア語の「クリノー」という言葉です。この「クリノー」という言葉は、自分はこうこうこういうことをすることに心を決めたというときにも使われる言葉です。また、分別するとか、選り分ける、区別するといった意味まで含んでいる言葉です。この「クリノー」という言葉が、英語のcriticizeという「批評する、批判する」という意味の言葉になったのです。

 また、この言葉は正しい判断についても使われ、ルカによる福音書の7章の41節以下では、あるとき主イエスがシモンに「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と話されました。するとシモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、それに対して主イエスは「そのとおりだ」とお答えになったとあります。この「そのとおりだ」と主イエスが言ったときの言葉が「クリノー」という言葉であり、「正しく判断した」という意味なのです。しかし、本日の聖書の箇所で、主イエスが「人を裁くな」と言われるとき、それは「人を正しく判断しなさい」ということではありません。それは「人を裁くな」に続けて、「人を罪人だと決めるな」と語られていることから分かります。

 「人を裁くな」に続けて、「人を罪人だと決めるな」と語ることで、人を裁くとは人を罪人だと決めることだと告げているのです。平たく言えば、人を裁くとは、あの人は罪人だけど、あの人は罪人でないというようなことです。ここで主イエスが、「裁く」こと、「罪人」と決めることを、問題にしているのはどういうことなのでしょうか。

おが屑と丸太

 本日の聖書の箇所の41、42節とおが屑と丸太のたとえが語られています。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。このように語られています。このたとえ話で主イエスは何をおっしゃられているのでしょうか。

 「兄弟の目にあるおが屑」とは、何なのでしょうか。先程、「平地の説教」は、主イエスが正しいモーセの律法の解釈について、教えて下さっているということをお話しました。そして、主イエスが活動されていた時代は、「律法の時代」で、ユダヤの民衆は、口伝律法と呼ばれるファリサイ的律法に縛られていたということもお話しました。この口伝律法がどれほど人々を縛っていたかを考える時に、口伝律法がどれほど細かな規定があったのかということからわかるかと思います。例えば、安息日の規定を例に取ってお話しますと、律法学者たちは、安息日の律法を守るために、安息日にしてはならない39の仕事や労働を定めました。そして、その39の仕事の一つ一つを更に6つに分類し、39☓6=234の禁止事項を定めたと言います。さらに、労働したか、しないかの基準に関する細則は1500にも及んだと言われています。このどれか一つを破ると、安息日の律法を破った、ということになるのです。当時の人たちは、この細かい規定をどれほど守ることができたかで、信仰深いかどうかを判断していたのです。

 「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中に丸太があることに気付かない」、主イエスはそういう人のことを批判しておられます。「兄弟の目にあるおが屑」とは、どういうことなのでしょうか。安息日の規定を例に取ってお話しますと、例えば安息日にズボンのポケットからハンカチを落としてしまったとします。落ちたハンカチを拾うのは、律法違反には問われません。しかし、拾ったハンカチを再びポケットにしまうと、収納するという労働はしたということで、律法違反になるのです。従って、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と言うことは、拾ったハンカチをポケットにしまったのを見とがめて、「あなたは今、ポケットにハンカチを仕舞いましたね。それは。律法違反です。あなたは罪を犯したのですよ」と指摘することを言っているのです。

 それでは、主イエスが「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」と言ったときの丸太とは何なのでしょうか。おが屑が口伝律法の一つ一つの規定を指しています。従って、丸太というのは、口伝律法全体を指していると言うことができます。そして、目の中にある丸太を取り除くことによって、「はっきり見えるようになる」と主イエスはおっしゃられているのです。「丸太」、すなわち、「口伝律法」を取り除くことによってはっきりと見えてくるものは何なのでしょうか。それは、モーセの律法の「心」だと言うことができます。モーセの律法の「心」とは、何でしょうか。それは、人間をお造りになった神様の、ご性質を指しています。本日の聖書の箇所の直前の36節に、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と語られています。この「憐れみ深い」という言葉は、ギリシャ語の旧約聖書で神さまのご性質を表す言葉です。

 出エジプト記第34章6、7節で、主なる神さまがご自身のお名前をこのように宣言されました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及び慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」と述べています。

 「律法の時代」であっても、律法を守る行為によって救われるという教えはありません。「律法の時代」であっても、信仰によって救われるのです。そして、信仰によって救われた人は、律法で命じられていることを信仰によって行うのです。罪を犯した人に、神様は恵みの方法を教えて下さっているのです。「律法の時代」に動物の捧げものをしたというのは、罪を贖う代替物として、生けにえを捧げることによって、神様との関係を修復する、信仰の表現として行っていたのです。それは、モーセの律法によって義とされるという教えではないのです。それは、どこまでも信仰によって義とされるという教えなのです。人が救われるのは、「律法の時代」であっても、「恵みの時代」であっても、信仰と恵みによるのです。

 それ故、主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と語られるのです。では、目から丸太を取り除いた人はどうなると言うのでしょうか。

赦しなさい、与えなさい

 本日の聖書の箇所の最初で、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と主イエスは語っています。主イエスは、口伝律法によって、「人を裁くな」、「人を罪人だと決めるな」ということをお命じになり、目から丸太を取り除けば、神様の「憐れみ深い」ご性質がはっきり見えるようになるのだと語っているのです。主イエスは、それからさらに2つのこと、即ち、「赦しなさい」、そして、「与えなさい」ということをお命じなっています。ここで誰を「赦しなさい」とか、どんな人を「赦しなさい」とか、あるいは誰に「与えなさい」とか、どんな人に「与えなさい」とか記されているわけではありません。何の条件もつけられていないのです。あらゆる人を赦し、あらゆる人に与えなさいと教えられているのです。しかし、私たちはすべての人どころかたった一人の人すら赦すことができません。すべての人に与えるどころかたった一人の人にすら与えることができないのです。それでは、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

ちいろば先生、榎本保郎牧師

 三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」で広く知られている、榎本保郎(えのもとやすろう)牧師は、その講演中で、次のような証しを紹介しています。

 あるご婦人が榎本牧師のところに相談に来ました。「もう死にたい」と言うのだそうです。ご事情を尋ねてみますと、そのご婦人の家では、ガスコンロにマッチで火をつけた後、マッチの燃えかすを空き缶の中に入れることになっていたそうです。今では、ガスコンロはつまみを回すと、自動で点火します。しかし、今から何十年も前の昔では、ガスコンロはマッチで火をつけていました。

 ところが、その相談に来た御婦人と同居している息子のお嫁さんは、コンロにマッチで火をつけた後、そのコンロの上に燃えかすを放って置くのだそうです。ご婦人は何回かやさしく注意したのですが、そのときはお嫁さんも「あ、すいません」と言って空き缶に捨てるのですが、またしばらくするとコンロの上に放っておくというのです。

 それで、それを苦にして、「死にたい」と言って相談にきたそうです。マッチ1本で死にたい。しかし、笑い事ではありません。他人から見たら、ほんの些細な小さなことでも、その人にとっては大きなことというのは、よくあることです。

 それで榎本牧師は、その御婦人に「そのマッチの燃えかすを、イエスさまの十字架だと思って、あなたが拾って缶に入れなさい」とアドバイスしたそうです。それで、そのご婦人は、それから、お嫁さんがコンロの上に捨てたマッチの燃えかすを、「これはイエスさまの十字架だ」、「これはイエスさまの十字架だ」と思いながら、黙々と空き缶に捨てていたそうです。

 そんなある日、お嫁さんは、自分がコンロの上に捨てたマッチを、お姑さんが空き缶の中に黙々と入れているのを見て、恥ずかしくなり、それ以来、お嫁さんも空き缶に捨てるようになったそうです。

裁きを受けたお方

 主イエスは、私たちの罪の丸太のために、裁きを受けられたのです。また、私たちの隣人の罪の丸太のためにも裁きを受けるために死なれたのです。だから私たちが、その人を裁く理由はもはやないのです。主イエスは、私たちが裁くのではなく、御自身の赦しと救いの業を見つめ、その人のおが屑を受け入れることを、私たちに望まれているのです。裁いてばかりいた、欠けの多い私たちが、その人を赦したその時、その人は赦しを知り、主イエスの愛を間接的に知るのです。そのことを通して、その人が主イエスと出会い、主イエスとその人が、直接的なつながりを持ち、主イエスに結ばれて、その人の目の丸太も取り除かれるのです。

 私たちの目には確かにそれでもなお、おが屑があります。しかし、それを生み出す丸太は取り除かれています。この世で生きている間に、私たちの目からおが屑がなくなるということはありませんが、聖霊なる神様によって、新しく造り変えられていく中で、私たちの目のおが屑は少なくなっていくでしょう。それは、わたしと隣人の間で、聖霊なる神様がいてくださり、赦し合い、互いに愛し合うことの中で、おが屑を取り除きあうことの中で少なくなっていくことでしょう。私たちは、裁きの目を向けるのではなく、主イエス・キリストによって丸太を取り除いて頂いた者として、その人と共にこの恵みにあずかることを切に祈り求めて行きたいと思います。私たちがなすべきことは、私たちの目から丸太を取り除き、罪を赦して、恵みの内に生かして下さった神様に感謝することだと思います。そして、終わりの時、つまり私たちの完成の時、私たちの目は完全に澄み渡った目になり、その全く誤りのない目で愛する隣人を見つめることができ、神様の御顔を見つめることができることと思います。私たちは、隣人と私たちの目が澄み渡る日を待ち望みながら、そして、互いの目の中のおが屑を受け入れあいながら歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。