小倉日明教会

『貧しい人々は、幸いである』

ルカによる福音書 6章 20節

2022年1月30日 降誕節第6主日礼拝

ルカによる福音書 6章 20節

『貧しい人々は、幸いである』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

似顔絵捜査官

 おはようございます。さて、事件を解決するためにさまざまな警察活動が行なわれますが、中でも、事件を起こした犯人やその疑いのある容疑者を特定する捜査はとても重要です。それは現場検証のときに得られた情報から、また、現場に残された遺留品から犯人の残した痕跡を見つけ出し、いろいろな捜査方法をもって事件の犯人やその容疑者を特定していくのです。犯人やその容疑者となる人物が特定されたら、次は逮捕や取り調べを行なうために本人を探し出さなくてはなりません。容疑者を探すには、捜査員と捜査関係者全員が情報を共有しておく必要があります。その共有情報のひとつとして用いられるのが、「モンタージュ写真と似顔絵」です。

 モンタージュ写真というのは、目撃者に顔のパーツを見せて組み合わせる合成写真なのですが、あまり正確なものができないそうです。というのは何千枚も写真を見ているうちに、目撃者の記憶が曖昧になってしまうのだそうです。自分が後から見た情報によって記憶が影響を受けてしまい、そもそも見た映像がわからなくなってしまうというのです。ところが、似顔絵の場合は、自分が見た外見を言葉で伝えるだけなのですが、実に正確に描けるのだそうです。

 ダヴという石鹸や洗顔料などのメーカーが作成した「リアルビューティー スケッチ (あなたは自分が思うよりもずっと美しい)」というプロモーションビデオがYouTubeで公開されています。このプロモーションビデオの中に、警察の似顔絵捜査官が登場するのです。2人の女性が会話をした後、そのうちの一人が似顔捜査官のいる部屋に入って行きます。そして自分の顔の特徴を話すのです。本人と画家の間はカーテンで仕切られているために、似顔捜査官は彼女の顔を見ることはできません。似顔絵捜査官は言われた言葉を手掛かりにして、その人の似顔絵を描くのです。次に、彼女と話していた女性が似顔絵捜査官の部屋に入って行きます。そして自分が話していた相手の特徴を言葉で伝えるのです。つまりこの似顔絵捜査官は同じ人間の顔を二人の異なる証言で描くのです。

 さて結果はどうなったのでしょうか。瓜二つの同じ顔の似顔絵が二枚揃うのでしょうか。そうはならないのです。見た感じは、少しは似ているのですが、別人なのです。そして、本人の証言に基づく似顔絵よりも、話し相手の語った言葉で描いた絵のほうがはるかに魅力的なのです。この実験を3組の人に行っているのですが、3組とも話し相手の言葉による似顔絵の方がはるかに魅力的に描かれているのです。

 そして、その絵を見た本人たちは、三人とも感動で涙を流すのです。自分が思い描いている自分の姿よりも、あの人のまなざしに映っている自分ははるかに魅力的なのだということを知って、心が震えるのです。なぜ自分を醜く、自虐的な見方で似顔絵捜査官に語って伝えたのでしょうか。それは、自分のことを語ろうとするとき、昔の自分の記憶や、以前に他の人から言われて傷ついた小さな言葉が蘇ってきて、それが、自分に対する見方になっているからなのです。しかし、それは本当の自分の姿ではないのかもしれないのです。

 今日の聖書の箇所には、主イエスが、周りを取り囲む12人の使徒に選ばれた弟子たち、その他の大勢の弟子たち、おびただしい数の群衆に向かって語られた記事が書かれています。今日は、これらの多くの人々が、主イエスの目にどのように映っていたのかということを考えながら、本日の聖書の記事を皆さんと共に学びたいと思います。

主イエスの「平地の説教」

 ルカによる福音書の第6章20節、つまり本日の箇所から6章の終わりまでには、主イエス・キリストがお語りになった説教が記されています。この説教はしばしば、マタイによる福音書第5~7章の、いわゆる「山上の説教」と比べられます。内容的にも重なっている部分が多いのです。私たちが今用いている新共同訳聖書は区切りごとに小見出しをつけており、その下の括弧に、内容的に同じようなことを語っている他の福音書の箇所を記してくれていますが、その括弧の中を見て行きますと、この20節から49節までの箇所と重なる内容はマタイの5章から7章にあることが分かります。マタイの方のこの説教が、ある山の上で語られたとされていることから「山上の説教」と呼ばれるのに対して、ルカのこの説教は、17節に、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあることから「平地の説教」と呼ばれます。今日から何回かに渡って、この「平地の説教」をご一緒に読んで行きたいと思います。

 聖書を読むときに、その聖書の記事がどのような文脈の中で記されたものであるかが、重要です。にもかかわらず、今日の「平地の説教」についいても、また、「山上の説教」についても、「○○は幸いである」と書かれたこの箇所は、最も有名な聖書の箇所だと言うことができますが、そこだけが切り取られ、文脈を無視して語られることの最も多い聖書の箇所でもあると言うことができると思います。そして、文脈を無視してしまうと、誤った読み方に陥ってしまうと思います。

「平地の説教」の歴史的文脈

 さて、文脈に従って、聖書の記事を見てみたいと思いますが、まずは歴史的な文脈について見てみたいと思います。旧約聖書が最後に書かれてから、キリストが現れるまでの時間を「中間時代」あるいは「メシア待望の時代」と呼ばれます。この期間に神様からの預言が下らなかったので「空白の400年」と呼ばれる事もあります。従って、旧約聖書と新約聖書の間には、大きなギャップがあるので、この中間時代のことは、聖書以外の資料から学ぶ必要があります。そして、この中間時代について学ぶことで、旧約聖書と新約聖書の間には一貫した流れがありことが分かるようになるのです。この400年でパレスチナ地方の政治的、宗教的、社会的環境は大きく変わりました。

 この「中間時代」に大変な世界帝国が興ります。それは、アレクサンドロスがペルシャのダリウス王を打ち負かして、ギリシャを世界的な王国としたのです。このためギリシア語が世界の共通語になってゆくのです。ギリシア語が世界共通語になることで、ユダヤ人たちは離散した同胞のために、ヘブライ語の聖書をギリシア語に翻訳するのです。こうして生まれたのが七十人訳聖書です。「中間時代」にギリシア語が共通語になっていることと、ギリシア語訳聖書が出来ていたことは、大きな変化の一つであったのです。それから、この中間時代に支配者が変わって行くのです。バビロン捕囚からユダヤ人たちが帰ってきますが、それはペルシャがバビロンを滅ぼしたからです。ペルシャを滅ぼしたのが、アレクサンドロスのギリシアです。しかし、アレクサンドロスは若くして死んでしまいます。彼が亡くなってから、ギリシア帝国は3つに分かれます。ユダヤ人にとって最も関係の深かったのは、シリアのセレウコス朝で、紀元前312年に成立します。セレウコス朝は、ユダヤ人たちを苦しめたのです。それに対して、ユダヤ人たちが紀元前167年に立ち上がって反抗したのが、マカベア戦争で紀元前142年に、勝利して、一時的に独立の時代を迎えます。これが、ハスモン王朝です。しかし、ハスモン王朝は、内紛を繰り返して、ローマの介入を招いてしまうのです。そして、気がつけば、ヘロデ王朝の成立によって、完全にローマ帝国の支配下に入ってしまうのです。「中間時代」の400年間に、ペルシャ、ギリシア、シリアのセレウコス朝、ハスモン王朝による独立、ローマ帝国の支配と、目まぐるしく支配者が変わったのです。独立して良かったと思っても、すぐにローマの支配がやって来たのです。そして、民衆はローマの圧政に苦しめられていたので、主イエスが来られた時代というのは、ユダヤ人たちがメシアの到来を待望した時代であったのです。「中間時代」に起きた大きな変化によって、ユダヤ人たちは、「メシア待望」の思いを強く持ったということができます。

 一方、「中間時代」には、ユダヤの民衆はローマの支配以外にも大変な束縛に遭っていたのです。それは、口伝律法と呼ばれるファリサイ的律法に縛られていたのです。宗教的に細かい律法に縛られていたのです。「中間時代」に発展した口伝律法が、人々の生活の細々したことまでを縛っていたのです。それでは、このような時代背景の中で、民衆はメシアに何を期待していたのでしょうか。それは、メシアが来たら、人々は口伝律法を自分たちがこんなにも守っていることを、よくやっているとメシアに褒めてもらえることを期待していたのです。ファリサイ的な口伝律法を守っている人々を義と認めて下さることを期待していたのです。

「平地の説教」の宗教的文脈

 次に、「平地の説教」の宗教的な文脈について見てみたいと思います。今、私たちが生きている時代は、キリスト教から見ればどういう時代かと言いますと、「教会時代」と言います。別の言い方をすれば、「恵みの時代」と言うことができます。さらに、もう一つ別の言い方をすれば、「新約時代」と言うこともできます。

 一方、「恵みの時代」の前の時代は、何と言ったかといいますと、「律法の時代」と言うことができます。私たちは、意識してはいないかもしれませんが、「恵みの時代」と「律法の時代」を分けて、理解していると言うことができます。分けて理解しているから、私たちは613もあるモーセの律法の規定を一生懸命守ろうとはしていないのです。分けて理解しているから、今日、この礼拝で私たちは羊の生けにえを捧げることをしていないのです。一方で、私たちは、十戒を始めとして、モーセの律法についての理解は混乱しているということもできます。「律法の時代」というのは、モーセ契約が生きている時代のことです。そして、イスラエルの民は契約の民として、モーセの律法を守るように命じられていたのです。それに対して、「新約時代」になると、私たちはもはやモーセ契約の中にはいないのです。それを新しい契約と言うのです。私たちは新しい契約の中で生きているということを理解しなくてはいけないのです。旧約聖書に新しい契約についての予言があります。それが、エレミヤ書31章31〜33節です。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 新しい契約はエジプトの地から導き出したときに結んだ契約、シナイ契約(モーセ契約)とは違うと言っているのです。そして、シナイ契約では、十戒は石の板の上に書かれましたが、神様はこの新しい契約を心のなかに書くと言っているのです。そして、それが私たちの心の内に留まるのです。この箇所で約束された新しい契約は、主イエスは、聖餐制定とこのエレミヤ書の言葉とを直接結び付けて、示しておられます。ルカによる福音書22章19節〜20節には、次のように書かれています。

 「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 主イエスは、「新しい契約」をご自身の血による贖いによる恩恵に結び付けて示しておられます。この約束の言葉は、シナイ契約の終わりを示し、神の歴史が新しい時代を迎えたことを告知しています。主イエスの十字架の苦難と復活において、その成就を見たと新約聖書は見ているのです。

 従って、本日の聖書の箇所で、「平地の説教」を主イエスが語ったときは、「恵みの時代」にはまだ入っていないのです。「平地の説教」を主イエスが語ったときは、まだ「律法の時代」であったのです。従って、「平地の説教」は「新約時代」について、語ったものではないと言うことができます。では、「平地の説教」とは何なのでしょうか。前回、主イエスの活動は大きく分けて、「教える」、御国の福音を「宣べ伝える」、「癒やす」という、3つであるということをお話しました。この3つの内、「平地の説教」は「教える」ということになります。すなわち、今日の聖書の箇所は、主イエスが正しいモーセの律法の解釈について、教えて下さっているということなのです。なぜ、主イエスが正しいモーセの律法の解釈について、教えることができるのかと言いますと、主イエスは神様として、モーセの律法の作成に関わったからなのです。そして、主イエスの語る正しいモーセの律法の解釈の中心がどこにあるのかと言いますと、本日の聖書の箇所の並行記事であるマタイによる福音書5章20節にあると言うことができます。そこには、次のように書かれています。

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 「平地の説教」も「山上の説教」も、この原則の上に書かれているのです。「律法学者やファリサイ派の人々の義」が何かと言いますと、口伝律法を一生懸命守ることによって、神様から義とされることです。一方、「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさる義が何かと言いますと、それは「信仰による義」なのです。律法学者やファリサイ派の人々がやっているよりも、もっと口伝律法を守って、神様の義と認定される競争に勝ちなさいということではないのです。そうではなくて、全く異なる原理に基づいて、神様に義と認められる道を求めなくてはならないと、主イエスはおっしゃっているのです。そして、ここで主イエスは、2つのことを否定しています。1つは、律法学者やファリサイ派の人々が行ってきたモーセの律法の解釈を否定しています、そして、もう一つは、口伝律法を行うことによって神の国に入ることができるという教えそのものを主イエスは否定しているのです。

 従って、宗教的文脈で見れば、本日の「平地の説教」というのは、律法の作者である主イエスご自身が、律法の解釈について、教えて下さっていると言うことができるのです。主イエスは、口伝律法を行うという、技による救いというのを否定なさっているのです。

「平地の説教」のメシアの生涯の文脈

 次に、「平地の説教」をメシアの生涯から見た文脈について、考えてみたいと思います。主イエスは「律法の時代」にこの世に来られましたが、ユダヤ人として、モーセの律法に従って生活されました。そして、この時代は、主イエスが旧約聖書で予言されたメシアであることを民衆に語りかけている時代です。この時点では、民衆は主イエスがメシアであることを拒否するところまでは行っていません。「平地の説教」が語られたのは、前回までにお話しましたように、主イエスと律法学者たちやファリサイ派の人々は、安息日を始めとする律法の規定について、論争を繰り返した直後です。そして、安息日を始めとする律法の規定についての論争の後、律法学者たちやファリサイ派の人々は、「イエスを何とかしよう」、即ち、主イエスを殺してしまおう、と考えたのです。そして、彼らの殺意がはっきりしたことを受けて、主イエスは夜を明かして祈りを捧げて、12使徒を選んだのです。その後、「山から下りて、平らな所にお立ちになって」、おびただしい数の民衆に対するいやしの後、今日の「平地の説教」の第一声を語られたのです。主イエスは、誰に向かって語られているのかというと、12人の使徒たちと、12人の使徒たち以外の大勢の弟子たち、さらに、各地から集まってきたおびただしい数の民衆たちに向かって語っているのです。主イエスが「平地の説教」を語られた時代というのは、多くの人々の主イエスに対する関心が高まった時代でもあったのです。それ故、ユダヤ全土だけではなく、異邦人の地からも多くの人々が集まったのです。

文脈に於いて、「平地の説教」を読む

 以上のような「平地の説教」の文脈を踏まえると、「平地の説教」は現代の私たちにそのまま適用すべきものではないことが、わかります。それでも、「平地の説教」を読むことが難しいのは、「平地の説教」を聞いている人々というのが、既に主イエスをメシアと受け入れることによって義とされた人々と、主イエスによって「癒やされる」ことによって、主の臨在のしるしを既に受けた人々であったということを、私たちが見落としてしまうからです。また、「平地の説教」は、新約時代の律法、「キリストの律法」の中で登場する要素がたくさんあるために、混乱してしまうのです。それは、隣人愛であったりするのですが、それはモーセの律法が生きていることとは違うのです。しかし、それでもキリスト教と言うと、実行不可能な道徳律を守ることによって、義とされると勘違いされてしまうのです。新約時代の律法は、心に聖霊によって書き記されています。それは、ガラテヤの信徒への手紙の6章の2節に示されています。

 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

 「平地の説教」は、救いの道を示したものではありません。もし、「平地の説教」が、救いの道を示したものであれば、主イエスの福音は、律法学者やファリサイ派の人々の主張と何ら変わらないことになります。聖書の語る救いの道は、どこまでも信仰と恵みによるのです。私たちが救われるのは、常に信仰と恵みによるのです。そして、「平地の説教」が語られた時代は、主イエスをメシアと信じることが信仰の内容となります。「律法の時代」であっても、律法によって救われるという教えはありません。「律法の時代」であっても、信仰によって救われるのです。そして、信仰によって救われた人は、律法で命じられていることを信仰によって行うのです。罪を犯した人に、神様は恵みの方法を教えて下さっているのです。「律法の時代」に動物の捧げものをしたというのは、罪を贖う代替物として、生けにえを捧げることによって、神様との関係を修復する、信仰の表現として行っていたのです。それは、モーセの律法によって義とされるという教えではないのです。それは、どこまでも信仰によって義とされるという教えなのです。人が救われるのは、「律法の時代」であっても、「恵みの時代」であっても、信仰と恵みによるのです。

 さて、「平地の説教」に関する聖書の文脈についての話が長くなってしまいました。来週の礼拝では、「平地の説教」の冒頭の、6章の20節〜26節までをまとめて取り上げたいと思いますが、今日はその予告編として、冒頭の「貧しい人々は、幸いである」と言ったときの「貧しい人々」とは、ということについて、最後に少しだけお話をしたいと思います。

 さて、本日の聖書の箇所では、次のように書かれています。

 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」

 イエスは目を上げ弟子たちを見て言われたとありますように、主イエスはこの言葉を弟子たちに向かって、語られたのです。主イエスの目に、弟子たちは「貧しい人々」と映ったのです。シモン・ペトロとその兄弟たちは、漁師ではありましたが、家を持ち、それなりの生活をしていた人たちです。他の弟子たちも同様であったと思います。レビとも呼ばれるマタイは徴税人をしていたので、かなりの資産家でもあったのです。しかし、主イエスの弟子となった今は、彼らは畑の麦の穂を摘んで、飢えをしのぐようなことも当たり前の状態であったのです。そのような貧しく、おびただしい数の民衆の癒しの際には、人々にもみくちゃにされて、ヘトヘトになっている弟子たちを見て、主イエスは幸いだと言われたのです。主イエスの目には、お世辞抜きに、「神の国はあなたがたのものである。」と映っていたのです。それは、なぜでしょうか?

神の乞食

 宗教改革者のルターがこの世の生涯を終えた時に語った有名な言葉があります。彼は、体調が悪かったのですが、マンスフェルト伯家の遺産争い調停のために旅に出かけ、その途中、生まれ故郷のアイスレーベンで、62年の波乱に富んだ一生を閉じましたが、そのわずか2日前に机の上に短い文章を書いてそれを次のような言葉で結んでいます。

 「われわれは乞食だ。それは本当だ。」

 このように語ったと伝えられています。結局自分は神の乞食であった、自分の一生はそうであったと言うのです。本当にそうなのだと振り返って改めて述べているのです。乞食とは物乞いをしてでしか生きられない人です。自分は神様に依り頼み、神様からの恵みをただ受け取ってだけ、天の国、神様の支配に入る他ない人間だと述べているのです。ルターは、勇気をもって95か条の提題を貼り出し、宗教改革者として活躍しました。そのような歴史に名を残したルターであっても、自分には誇れるものは何一つない、全く無一文の人間だと言っているのです。

 ただ神様の恵みに依り頼み、神様のものとされているからこそ、その恵みによって生かされていると言っているのです。神様に物乞いをするしかない、自分の生涯であったと、自分の生涯を振り返ったのです。貧しい人々というのはこういう人だと思います。

 「平地の説教」で、私たちが問われているのは、私たちが神様の前で、どのような者として立つのかということだと思います。私たちは、どこまでも貧しい者として、主イエスに従って歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。