小倉日明教会

『主イエスに遣わされて ―過越しの食事の準備―』

ルカによる福音書 22章 7〜13節

2025年3月2日 降誕節第10主日礼拝

ルカによる福音書 22章 7〜13節

『主イエスに遣わされて ―過越しの食事の準備―』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                       役員 川辺 正直

■Men for others, with others(他者のために、他者とともに)

 おはようございます。2018年6月9日、21時42分、定刻通りに、のぞみ265号は新横浜駅を出発し、次の到着駅である小田原を目指して走っていました。こののぞみ265号の12号車に犯人である小島一朗と、失血死という死因により被害者となってしまう外資系の化学メーカーBASFジャパンに勤める梅田耕太郎さん、2名の女性を含め他にも乗客が乗車していました。梅田耕太郎さんは、横浜での2日間の社内研修を終えて、兵庫県尼崎市の自宅への帰途についたところでした。しかし、ひと息つく間もなく事件は起こります。『逃げて!逃げて!』新横浜駅を出発して3分後の午後9時45分頃、車内に叫び声が響きました。梅田さんの2列前に座っていた小島一朗容疑者(22歳)が、無言で立ちあがるなり、右側に座る27歳の女性を鉈(なた)で切りつけたのです。突然の出来事に、車内はパニックに包まれます。恐怖に震えた乗客たちは、猛ダッシュで隣の車両へと急ぎます。避難する乗客たちを横目に、決死の行動で男に立ち向かったのが、梅田さんでした。梅田さんは、小島容疑者の背後から気づかれないように近づいた。身長180cm弱の梅田さんは、小島容疑者の背後から近づき、後ろから抑えて、小島容疑者の動きを制止します。その隙に、切りつけられた女性は肩から血を流しながらも後方に逃げることができたのです。

 その後、梅田さんは刃物を持った小島容疑者と激しくもみ合って転倒してしまいます。すると、小島は迷うことなく、通路を挟んで左隣に座る26歳の女性に、再び凶器の鉈を振り下ろします。こちらの女性が2人目の被害者です。倒れていた梅田さんは、すぐに立ち上がり、小島容疑者の凶行から女性を守るべく、再び止めに入ったのです。2人目の女性を後方車両へ避難させた梅田さんに、逆上した小島容疑者は鉈(なた)で容赦なく襲いかかります。応戦していた梅田さんに、木島容疑者は馬乗りになり、執拗に何度も鉈(なた)を振り下ろし、殺害してしまうのです。

 列車は非常用ボタンの作動により綾瀬市内で緊急停止した後、22時3分に小田原駅に緊急停車します。そして、駅で待機していた警察官により、小島容疑者は殺人未遂の現行犯で逮捕されるのです。列車の通路は、床一面、血の海で、事件の惨状を物語っていたそうです。司法解剖の結果、梅田さんの死因は失血死であったそうです。梅田さんの身体には、胸や肩をはじめ約60ヶ所にも及ぶ傷があり、致命傷となった首には約18cmの切り傷があったそうです。この梅田さんの命をかけた犠牲によって、少なくとも2名の女性の命は救われたのです。梅田さんの命の身代わりで、2人の女性の命は救われたのです。

 2人の女性の命を救うという行動を取った梅田さんはどのように育って来た人なのでしょうか。梅田さんは、横浜の梅林小学校を卒業すると、鎌倉にある私立の中高一貫校である栄光学園に入学します。栄光学園は、カソリック修道会の一つであるイエズス会を運営母体とするミッションスクールで、栄光学園の『栄光』という名前は、『AD MAIOREM DEI GLORIAM(より大いなる神の栄光のために)』というイエズス会の標語から来ているのです。梅田さんが通った栄光学園の教育理念は、『Men for others, with others』( 他者のために、他者とともに)というものであったそうです。栄光学園では、周囲で苦しむ状況におかれた他者に目を向け、協力し合い、問題解決のために、喜んで自分を差し出すことのできる人間になるように。そして、自分に託されたことを発見し、逃げたい気持ちとたたかい、ためらうことなく、やるべきことを、やるべきときに、やる。私だからできること、私にしかできないこと、いま私が、そのことを実行する義務を果たせるように、自分の力だけで生きているのではなく、自分を超える存在に生かされていることに気づき、自分を生かしてくれる神様の思いを実現できる人になりなさい、という教育を受けていたそうです。

 この栄光学園の教育の基盤となったのは、主イエス・キリストの生き方であったと思います。本日の聖書の箇所で、受難週の中という状況の中、全ての人を救うために、主イエスはどのようにして十字架へと向かわれたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を、読んで行きたいと思います。

■過越の小羊を屠るべき除酵祭の日

 本日の聖書の箇所の7節を見ますと、『過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。』とあります。『過越の小羊を屠るべき・・・日が来た。』とある訳ですが、当時の習慣で言いますと、過越の小羊を神殿に運び、そこで傷やシミがないか吟味されたのです。神様の子羊である主イエスは、既に4日間に渡り、ユダヤ人の宗教的指導者たちから、吟味を受けていました。その吟味が終わって、いよいよ子羊が屠られる日、これはニサンの月の14日の午後3時から午後6時にかけて、子羊は屠られたのです。ニサンの月の14日、聖書に記載されている、この年はそれが木曜日であり、ここで場面が水曜日から木曜に移っていることが分かります。そして、その午後3時から午後6時にかけて、子羊の血が流されるわけです。血が流れてゆく下に、鉢を持って受けるわけです。それから、鉢に受けた血を、今度は祭壇の土台の部分に注ぐのです。この仕事をするのはレビ人たちであったのです。レビ人たちは、長い列を3つ作って、手渡しでその血を運んで、それから、祭壇の土台の部分に注いだのです。このようなことが、ニサンの月の14日の午後3時から午後6時にかけて、行われていたのです。ですから、祭壇の周りは血だらけになるのです。屠られた子羊の血は、どうなるのかと言いますと、過ぎ越しの食事のために家に持ち運ばれたのです。これは食材になったのです。祭壇で焼かれる部分は取り除かれました。それ以外の部分を家に持ち帰って、食べたのです。家では、子羊の肉以外に、別の食材も用意されました。例えば、種なしパン、苦菜(にがな)、あるいは、ぶどう酒などが用意されたのです。

 ここで、『除酵祭の日』という言葉が出てきていますが、除酵祭というのは、過越祭の翌日から7日間続く、パン種を取り除いたパンしか食べてはいけない7日間の祭りなのです。もちろん過越祭でもパン種は取り除いていますから、パン種の入っていないパンを食べるのは、前回お話しましたように、申命記の16章1〜3節に記述に従って、過越祭が1日、それに続いて7日間の除酵祭、合計すると8日間続くのです。

 申命記の記述では、出エジプトの際の緊急事態における食事としてのパン種の入っていないパンは『苦しみのパン』とも名づけられています。それ故、除酵祭というのはイスラエルにとって解放の出来事の記念である訳ですが、しかし、それは決して喜ぶだけの祭りではなく、子羊の血の犠牲と『苦しみ』を経ての喜びであり、神様の救いとはイスラエルにとっていかなるものであるかを記憶するためのものであることから、除酵祭にはそのような『苦しみ』を経てという性格を失ってはならなかったのです。そして、この事が主イエス・キリストにおける神様の救いのみ業が、過越祭と除酵祭に結びつけられる理由となっているのです。

 そして、木曜日が来たのです。そのような状況の中で、主イエスが弟子たちとどこで食事するかまだ決まっていないのです。ですから、ルカによる福音書には書かれていませんが、弟子たちは、今年はどこで過越の食事をするのだろうかと、口にはださないけれども、悩んでいたはずなのです。それが、この7節の状況なのです。

 そして、除酵祭の日と言いますと、通常はニサンの月の13日、つまり過越祭の1日前から家の中から、パン種を除く作業を始めるのです。それが、『除酵祭の日』という言葉が通常表していた内容なのです。ニサンの月の13日と言いますと、この年は水曜日になります。ですが、この聖書の記事の文脈では、『除酵祭の日』というのは、13日の水曜日ではないのです。もう14日になっているのです。14日の木曜日のことなのです。ですから、14日の木曜日に過越祭の食事が準備されたというのが、今日の聖書の箇所の過越の食事の準備をしてゆくという話なのです。そして、いつその食事を食べるかということですが、日没後なのです。ユダヤの暦では、日が沈むとニサンの月の15日の金曜日になっているのです。ですから、過越の食事は、ニサンの月の15日の金曜日になってから、食べるのです。そして、その食事をした翌朝、主イエスは十字架にかかるわけなのです。

 それが、このときの時間的な流れであるわけですが、この7節の一文は、もう一つの意味を持っていると思います。それは、マルコによる福音書では、『除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日』(14章12節)と記され、マタイによる福音書では、『除酵祭の第一日に』(26章17節)と記されていますが、ルカによる福音書では、『過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た』と記されています。ルカによる福音書だけが、『屠るべき』という言葉を用いています。この『べき』という言葉は、神様の意志、計画を言い表していると思います。例えば9章22節で、主イエスはご自分の死と復活を予告されて、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』と言われましたが、『必ず……なっている』と記されているのが、7節の『べき』と同じ言葉です。ご自分の死と復活が神様のご意志、ご計画であると、主イエスは語られているのです。それと同じように、『過越の小羊を屠るべき』とは、主イエスが過越の小羊として死ぬことに神様のご意志、ご計画がある、ということです。過越祭あるいは除酵祭に、主イエスが過越の小羊として死なれることに、私たちを救うための神様のご計画があるということを、福音記者ルカは見つめているのです。

■過越の食事の準備

 本日の聖書の箇所の8〜12節を見ますと、『イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」』とあります。主イエスは、エルサレムの外のオリーブ山などの城壁に近い、人々がテントを張り巡らしている場所ではなくて、エルサレムの城壁の中の建物の中で、過越しの食事をしようとされたのです。そして、その準備を、ペトロとヨハネに任せたのです。過越しの食事の準備に遣わされたのがペトロとヨハネという2人であったという情報は、ルカによる福音書だけに出てくるのです。

 主イエスのこの命令を受けた時に、彼らは『どこに用意いたしましょうか』と尋ねています。彼らはどこに用意したら良いのだろうか、巡礼者で溢れ返っているエルサレムのどこにそういう場所があるのだろうかと戸惑っているのです。しかし、主イエスには計画があるのです。それでも、主イエスはどこで食事をするのかを隠しているのです。理由は、ユダに知られないためなのです。ユダに知られて、ユダが急いでユダヤ人たちを手引きして、予定よりも早く主イエスが逮捕されるようなことになると、過越しの食事を共にすることができないという恐れがあったのです。ですから、主イエスは計画を自分の胸の中に収めて、誰にも明かしていないのです。ここから、ペトロとヨハネにその場所は、どこかという話を始めるのです。10〜12節の記述から、主イエスが事前に計画を立てておられたということが分かります。都に入ると、ある人に出会う。その人は水がめを運んでいる。これが徴(しるし)だと言うのです。徴(しるし)というのは、珍しい光景だから、しるしとなるのです。『水がめを運んでいる男に出会う』というのは、何気ないことのように思えますが、当時は、男性が水がめを運んでいるというのは、非常に珍しい光景であったのです。男性は水を運ぶ時にどうしていたのかと言いますと、通常は革袋に入れて運んでいたのです。水がめで水を運ぶのは、女性であったのです。ですから、男性が水がめを頭に乗せて運んでいるというのは、非常に珍しかったのです。ですから、都に入ると、すぐにその水がめを運んでいる男性が見つかったのです。これは、主イエスが事前に準備していた決め事であったのです。そして、その男性に会ったら、どうするのかと言いますと、『その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』(10〜12節)というのです。ここでのポイントは、『先生が、・・・とあなたに言っています。』ということなのです。先生と訳されていますが、これはギリシア語で『リダスカロス』という言葉が使われています。これは、弟子たちが主イエスを呼ぶときの称号、タイトルなのです。ですから、その家の主人に、『先生』が『あなたに言っています。』というのは、主イエスとこの家の主人の師弟関係を示していて、この家の主人はすでに主イエスの弟子の一人になっていたということだと思います。ですから、このような決め事が成立しているのです。

 その言葉を聞いて、その家の主人はどうするのかと言いますと、『席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』というのです。『席の整った二階の広間』ということは、この主人は主イエスの弟子が来ることを知っていて、すでに2階の広間に準備を整えているというのです。『二階の広間』というのは、当時の家屋の構造から言いますと、屋上に用意された広間です。そして、そこに登るためには、建物の脇に2階に上る階段がついているのです。広い空間です。ですから、外の階段を使って、入ることのできる広間であったのです。このような構造の家というのは、当時の裕福な家の特徴であったのです。ですから、この家の主人は、主イエスの裕福な弟子であったのです。『席の整った』というのは、どういうことかと言いますと、横になって過越しの食事ができるように、その家の主人はクッションを用意して、全て整っているということなのです。

■主イエスが備えた道を歩く

 次に、本日の聖書の箇所の13節を見ますと、『二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。』とあります。ここでは、主イエスはこの通りになるという、小さなスケールの奇跡を行っているのです。つまり、ペトロとヨハネが行ってみたら、主イエスが語られた通りであったということなのです。このことは、十字架に向かって、主イエスは全ての状況を、完璧にコントロールしているということを示しているのだと思います。そして、ペトロとヨハネは当時の習慣に従って、過越しの食事の準備をしたのです。この過越しの食事の準備をしたのはペトロとヨハネですが、この過越の食事は主イエスご自身が弟子たちを招いてあずからせて下さったものだったと言うことができると思います。

 主イエスはペトロとヨハネという二人の弟子を遣わしたように、私たちをも遣わされるのだと思います。しかし、その派遣に先立って、主イエスご自身が備えをしてくださっているというのが、本日の聖書の箇所が語っていることだと思います。私たちは、自分では思ってもみなかったところに遣わされたり、ろくに準備もできていないのに遣わされたりするということが、私たちの人生の中で起きてくると思います。しかし、そのようなときも、私たちを遣わす主イエスは、私たちのために備えをしてくださっているのだと思います。2人の弟子がそうであったように、私たちもまた、主イエスご自身が準備を進めてくださったところへと遣わされていくのだと思います。そして、遣わされた先で、2人の弟子が、『イエスが言われたとおりだった』という経験を与えられたように、私たちも主イエスが聖霊の働きによって、私たちのために備えをしてくださったことに気づかされるのだと思います。2人の弟子は、遣わされた先で、用いられて過越しの食事の準備をしました。同じように私たちも遣わされた先で用いられて行くのだと思います。しかし、それは、自分の力で何もかもを行うようなことではなく、主イエスがほとんどすべてを準備してくださった後に、その準備を完成させるようなものだと思うのです。主イエスによって遣わされる私たちは、主イエスが備えてくださった道を歩んでいくのです。

■人の計画、神の計画

 この過越の食事の準備において、主イエスが過越の羊として死ぬべきである、という神様の救いのご計画が前進していきます。そのご計画のために主イエスご自身が備えをされ、また、主イエスに遣わされた弟子たちもそのご計画のために用いられました。ユダの裏切りによって祭司長たちや律法学者たちは計画を変更して、過越祭あるいは除酵祭の間に主イエスを捕らえることにしました。しかし、これらの人間が考えた計画の変更をも用いて、神様の救いの計画は前進して行くのです。サタンの働きによって、神様に敵対する力によって、主イエスが十字架へと追いやられていくように見える中で、実は、神様の救いの計画は前へと進んでいるのです。主イエスの十字架での死において、神様に敵対する力は極まります。しかし、まさにその時に、神様の救いの計画は実現し、神様の私たちに対する愛が極まることになるのです。この主イエスの受難物語の導入部分において、人の計画をも用いて、サタンの働きに阻まれることもなく、私たちの救いのために、主イエスが過越の羊として十字架で死なれるという、神様の救いのご計画が前進していたのです。

 この神様の救いの計画は、主イエスの十字架の死において決定的に実現しましたが、今もなお世の終わりに至るまで前進しているのです。私たちは今も、人の計画を用いて、サタンの働きに妨げられることなく前進している神様の救いの計画の中で、生かされ、遣わされ、用いられていくのだと思います。それ故、私たちは、主イエスによって、私たちが生かされていることを覚え、そして、主が私たちに託されたことを見出し、そのとき私だからできること、私にしかできないことを、逃げたい気持ちとたたかい、ためらうことなく、やるべきことを、やるべきときに、やることで、私たちの周囲にいる方々と共に生き、主に栄光をお捧げする者となりたいと思います。

 それでは、お祈り致します