■風のように
わたしは風が好きです。
春の桜や秋の紅葉が風に吹かれて、その花びらや葉っぱが一斉に踊るようにして舞うのを見るとうっとりとしてしまいます。夏、汗をいっぱい掻(か)きながら自転車をこげば、顔に当たる風が暑さを吹き飛ばしてくれます。白い雪を運んでくる冬の風は、とても冷たいけれど、身も心も引き締まるようです。
ところで風って、どんな色、どんな匂い、どんな味、どんな手触りでしょうか。そう、わたしたちの誰も、風を自分の目で見ることも、手でつかむことも、鼻で臭いをかぐことも、口で味わうこともできません。それでも、木の枝が揺れ、雲が流れ、花が舞い、葉がザワザワと音を立て、この頬(ほほ)に当たるのを感じれば、風が吹いているのだとわかります。不思議です。しかしそれこそ、神様のよう、神の聖霊のようです。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」
神様も風のように目には見えませんし、手に触れることもできませんが、それでも、神様がいつもわたしたちと一緒にいてくださり、どのようなときにもわたしたちを支え、導いてくださっている、そう感じることができます。目には見えないけれども、いつも、どこででもわたしたちのために吹いてくる風、それが神の働き、神の聖霊です。
こんなことがありました。
とても気持ちの良い五月の昼下がり、久しぶりの休暇に家にいるのはもったいないと思い、ペットボトルに入れたコーヒーを片手に、川沿いの公園へ行きました。
木の間から陽の光がきらきらと洩(も)れてきます。こどもたちが遊んでいるそばで、お父さんやお母さんたちがベンチに座って楽しそうに話をしています。そこに緑色の葉を揺らして風が吹いてきました。緑の風です。気持ちの良い風を頬に感じながら、ベンチに座っていました。
ふと見ると、小さな男の子が、まんまるの綿毛になったたんぽぽを手に持って、ふうーっと息を吹きかけて飛ばしています。綿毛が緑の風に乗って、ふわん、と飛んでいくのを見ると、その男の子は綿毛のひとつに、「待ってえー」とかわいい声で呼びかけながら、それでも待ってくれないたんぽぽの綿毛を追いかけます。
綿毛は、風に吹かれ、ふわふわ、飛んでいきます。楽しそうに男の子は、きれいな目をしっかりと見開いて、その小さな綿毛を風の中に見失わないように見つめ、追いかけていきます。やがて、綿毛が地面に落ちたようです。それでも男の子は、しゃがみ込んで、地面を見つめて、綿毛を探しています。
たんぽぽの綿毛に、「待ってえー」と声をかけ、追いかける男の子がかわいくて、そして綿毛を見逃すまいと、じーっと見つめる男の子の澄んだ瞳がとても美しい、そう思いました。
わたしたちは人と喧嘩をしたり、大切なものを失くしてしまったりすると、もうどうしていいかわからない、もう駄目だ、もうどうでもいい、と悲しく、苦しくなってしまうことがあります。
そんなときに神様は、わたしたち一人ひとりに、ふうーっと聖霊の風を吹きかけてくださって、たんぽぽの綿毛のように、わたしたちを安心できる場所へと運んでいてくださるのではないでしょうか。神様は、聖霊の風を吹きかけながら、あの小さな男の子のようなきれいな瞳で、わたしたち一人ひとりのいのちのゆくえを一生懸命、どんな時もどこまでも追い続け探し続けて、見守っていてくださるのではないでしょうか。
幼な子に見つめられている綿毛のような気持ちで、神様にいつも見つめられていることを忘れないでいたい、そう思わされました。
■違うということ
そして今日、もうひとつお話をしたいのは、一人ひとりの上に留まったのが「炎」ではなく、炎のような「舌」であったということ、聖霊が注がれた多くの人々が様々な言語「舌」で語り出したという奇跡についてです。
「そして、炎のよう密が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」
これは、神の風は違った人たちそれぞれに、違った仕方で吹くのだということです。創世記一一章に描かれる「バベルの塔」を思い出されるかもしれません。人間は「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と考えました。これを知った神は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。…直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と人間の言葉を多くに別けて、「全治に散らされ」ました。それは、神をも恐れぬ人間の傲慢さを打ち砕くためでした。ところがわたしたちは今も、「みんなと一緒」「みんなと同じ」ということばかりを大切にしてしまいがちです。教会はこれまで、あまりにも画一的で紋切り型にしか語ろうとしてこなかったのではないでしょうか。
しかも、最初のペンテコステで語られた言葉は、このすぐ後六節にあるように、そこにいた人たちにとっては「故郷の言葉」、懐かしくて、身近で、安心できる言葉であったと書かれています。しかし今、わたしたちが語る言葉はあまりにもよそよそしいものになってはいないでしょうか。どうしたら、もっとこの世界の現実の中で、人々の現実に寄り添った言葉で語ることができるのでしょうか。
ペンテコステの出来事では、多様であること、違うということが、神様の罰ではなく、祝福として語られています。それなのに、この後の教会はしばしば、自分と違う考え方ややり方を認めようとせず、むしろそれを排除しようとしてきました。
自分と違うということは、自分にはないものをもっているということであり、自分にはできないことができるということです。わたしたちは自分とは異質な存在をこそ、必要としているはずです。それなのに、わたしたちは自分と違うところがあると、それは駄目だと言って、仲間外れにしてしまうことはないでしょうか。
小学校三年生まで、わたしは体も小さく、生育も、何をするのも、人よりもゆっくりというか、遅いこどもでした。人と同じことができません。人のペースについていけない、そんなこどもでした。それで、人と一緒に何かをすること、特に「全体行動」と言われるものが嫌いでした。「集合!」って声がかかっても、いつも最後になります。大嫌いな運動会の隊列行進では、他の人と足並みが合いません。
そして学校教育はそのことを許しませんでした。わたしはいつも叱られ、叩かれ、立たされていました。「みんなと同じにできないのか」「何でちゃんとしないんだ」「素直じゃないぞ」「ひねくれものー」自分でも分かっていましたが、自分ではどうしようもありません。「みんなと同じにできる」普通の友人たちからちょっと遠いところにいるという、小さな寂しさ悲しさのようなものをいつも胸の内に抱(かか)えていました。
みんなと同じにできなかったこどもは今、教会の牧師という、やっぱりみんなとちょっと違う仕事をしています。そしてそこには、なぜか、みんなとちょっと違う人が集まってきます。どんな仕事も長続きしない人、うつ病になりかけた人、家出してきた高校生、不登校の中学生、いじめにあった小学生、カルト教団から逃げ出してきた人、ホームレス、同性愛者、アルコール依存症の人、犯罪歴のある人などなど。この社会は、みんなと同じにできない人をいじめます。
だから、みんなが傷を負っています。そんな彼らの話を聞いていて、共感のあまり胸が熱くなることがあります。心が叫びます。
(みんなと同じにできなくっても、いいんだよ。みんなと違うことは、大切なことなんだよ!)
■ほんとうの豊かさ
人はだれであれ、他人(ひと)との違いの中で自分を見つけ、自分をつくっていきます。だから、自分と他人が違うということは、とてもうれしいことです。人はだれであれ、違う他人と出会い、違いを受け入れ、違いを楽しむことで、人生の喜びを見つけ、人生の意味をつくっていきます。だから、一人ひとりがみんな違うということはとても豊かなこと、違うことこそがほんとうの豊かさなのです。
人がこれほどまでに、互いに違うものとして、多様な現実を生きるようにつくられているのは、その違いを生かすことで初めて、人はあるがままに共に生きることができる、また神の愛にふさわしくあることができるからなのでしょう。とすれば、違うことを恐れ、違うものをいじめる、わたしたちの心の闇の中にこそ、人が人を滅ぼすことになる罪が芽生えていると言えるのかもしれません。違うからと言って、仲間外れにすることを神様は喜ばれません。違うことを大切にすることで、わたしたちはとても楽しく幸せになれますし、そのことをこそ、神様は誰よりも喜んでくださるのです。
思い出してください。ペンテコステの日、集まっていた「一同」とはだれのことだったでしょうか。 十二人の使徒と女たち、母マリアやイエスさまの兄弟たちです。一章一二節以下にそのことが書かれています。彼らのうち、イエスさまが十字架に掛けられたとき、最後までイエスさまに添い続けた人がいたでしょうか。ほんの数人の女たちを除けば、だれ一人いません。自分の強さ、信仰の深さから主イエスに従った、そう思っていた人もいたかもしれません。ペトロだって、イエスさまのためならたとえ火の中、水の中、と本気で思っていたでしょう。しかし結果は、鷄が鳴く前に三度も、イエスさまを知らないと言ってしまいました。尊敬し従ってきた主イエスの苦難、その死に際に、だれも最後まで従い続けることができなかったのです。
しかし、そんな彼らが今また、一つになって集まることができたのです。自分に対する自信や自分の信仰深さによって集ったのではありません。自分自身の弱さ、ふがいなさ、至らなさに気づかされた者に、復活のイエスさまが出会ってくださったから、その約束を信じて集っていたのでした。
それはもはや、自分を誇る者の集まりでも、人と比較をして安心や心配をする群れでもありません。「一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と語られるペンテコステの出来事は、自分の弱さに気づいた弟子たちに「聖霊」が降ることによってもたらされた、神になろう、人よりも良くなろう、人と比較して生きよう、自分のことだけといった、自己中心からの解放の出来事ではなかったでしょうか。
イエスさまの前に飾ることなく、すべてをさらけ出さざるをえなかった彼らは、聖霊によって今も共にいてくださる主に理解され、受け止められたからこそ、今度は、他人に分かってもらおう、相手を受け止め理解しようと変えられたのでしょう。
聖霊が働くとき、自分が変えられ、人と人との隔てが取り去られるのです。それは、決して自分の努力や能力ではありません。自分で自分を変えられるのであれば、とっくにわたしたちは変わっているはずです。分かっていてもいけないことをしてしまう、すべきことができない、それがわたしたちの現実です。そんなわたしたちの内に働き、わたしたちを打ち砕かれる神ご自身が、聖霊なのです。
分かれて現れた「炎のような舌」は、多様な言語をもたらしましたが、その源はただ一つです。わたしたちは主にある一致を確信しつつ、互いの違いを喜び、祝福しあって、新たな歩みへと向かっていくものでありたいと願います。
そして想像してみてください。世界教会協議会WCCだけでも、世界一二〇か国以上、五八億人以上のクリスチャンが、それぞれの違いを喜び、感謝しつつ、ひとつにされているのです。今日も、世界中の教会でペンテコステを覚えて、たくさんの言語で聖書が読まれています。それこそ、ペンテコステにふさわしい礼拝の姿だと言えるのではないでしょうか。そんな礼拝にわたしたちもまた集められ、この後、共に聖餐の恵みにあずかることが許されているのです。聖霊の導き、神様の祝福、主キリストの恵みに心から感謝して祈ります。