■捨てられた人
一二節から一三節に「誘惑を受ける」というタイトルがつけられていますが、古くは「誘惑の荒れ野」となっていました。冒頭一二節、
「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」
「荒れ野」と訳されるこの言葉を、ユダヤの人々はふたつの意味で使っていました。ひとつはもちろん、自然の荒れ野、石と岩だらけの荒涼たる荒れ野のことですが、もうひとつは、人を表わす言葉として使っていました。「荒れ野」のような人、といった使い方です。荒れ野のような人と言うと、荒(すさ)んだ人のことを考えるかもしれません。その人に近づくことさえ躊躇(ちゅうちょ)する、荒んでささくれ立った人のことを思われるかもしれません。
でも、この言葉のもともとの意味は「捨てる」です。荒れ野とは「捨てられた野」のこと、捨てられて、誰も住むことができないような荒れ地、それが荒れ野でした。「人里離れたところ」と訳される言葉も、これと同じ言葉でした。人のいない、人に捨てられるようなところです。つまり、荒れ野のような人とは、荒れ野のように人から捨てられている人、他の人から顧みられない人のことを意味します。
わたしたちの周りにも、自分のことを人から捨てられ、誰からも顧みられることもないままに生きていると感じている人がいます。そう思えるだけでなく、事実、そのように生きるほかない人々がいます。そして、そのような人が確実に増えています。
東日本大震災が起こるほんの少し前、NHKで「無縁社会」というタイトルのドキュメンタリーがシリーズで放映されました。誰とも関係を持たずに生きている、そう生きるほかない人々の姿、その人たちが抱える深刻な状況を鋭く描き出したものです。年老いて、あるいは二〇代から五〇代の人であっても、ただ一人じっと家に閉じこもっているほかない人、治る見込みのない病気になってしまい、もう回復することのできない衰えに耐えるしかない人、事業に失敗し、仕事を失い、ついには家族との絆も断ち切られて路上でひとり暮らし、人知れず死んでいくほかない人、人…その人たちの孤独、寂しさは、まさに荒れ野と言えるものでしょう。わたしたちの荒れ野は、老いや病や仕事の失敗によるものばかりではありません。様々なことで心に深い傷を負って生きているたくさんの人がいます。しかも、それをどうすることもできない、どうすれば癒されるのか、どう立ち直っていけばいいのか分からない、そんな絶望の中にある人々がいます。もちろん、何の悩みもなく順調に生きている人もいるでしょう。しかし、一見順風満帆に見える人々にとっても、人から打ち捨てられ、顧みられることなく、崩れていくほかない人の姿は決して他人事ではありません。
■わたしたちの荒れ野
二五年ほど前のことです。ひとりの中学生が、マスコミにこんな質問を投げかけました。「どうして人を殺してはいけないのですか」。サカキバラ事件など、こどもたちによる無残な殺人事件が続いて起こり始めた頃のことです。テレビのコメンテーターたちは、社会が悪い、学校や家庭教育の問題だ、いのちの大切さ、道徳をしっかり教えなければならない、と声高(こわだか)に叫んでいました。でも、人を殺してはならないということは、そんな知識によって教え込むことのできるものなのでしょうか。
ここに、こどもが書いた詩があります。「顔」という題の詩です。
「お母さんは/ぼくの/いっしょうけんめいな顔が好き
つらいときの/いたいときの/
くるしいときの/歯を くいしばったときの/
限界のときの/くずれそうなときの
お母さんは/ぼくの/いっしょうけんめいな顔が好き」
ひたすら、がんばれ、がんばれと言い続けられるこどもたちは、いったいどんな人間になっていくのでしょうか。無縁社会と表現される現代社会では、こどもたちがあるがままの姿で大切にされ、受け入れられ、必要とされる経験を持つことが少なくなっています。いえ、ほとんどなくなってしまいました。「どうして人を殺してはいけないのか」と問いかけるその声は、「助けて!」という心の叫びにさえ思えてきます。
だれひとり、自分だけで生きていける人などいません。ですから、人を殺すことは自分を殺すことも同じはずです。それなのに、こどもたちは、人と出会い、人とふれあい、人との折り合いをつけながら、人と人の間に自分の居場所を見つける、そんな経験よりも、効率よく成果や結果を出すことばかりを求められています。人と共に生きていく経験よりも、人よりも先んじ、人よりも秀でて、人よりもより多くのものを持つことばかりが求められる、そんな罪深い時代を生きています。
そんなこどもたちにとって、周りにいる人々はもはや、生きていく上でかけがえのない、大切な存在ではありません。たとえどんなに孤独であっても、自分の周りの人間は、ただ競い合い、蹴落とすべき存在、もっと言えば、いてもいなくてもいい存在、自分の都合で簡単に捨て去ることのできる、傷つけても、たとえ殺してもかまわない存在になってしまいます。
これは、こどもの世界だけのことではありません。昔も今も変わらない、自分のために人のいのちを傷つけ、人を捨て去り続けている、荒れ野のような、わたしたちの罪の話です。 人と人との絆が断ち切られてしまった社会、人と人が寄り添い生きることの大切さが見失われてしまった愛なき人々の群れ―そんな社会の至る所から、荒れ野が、わたしたち自身の荒れ野のような深刻な姿が垣間見えてきます。
■罪の中でこそ
イエスさまがまず荒れ野に赴かれたのは、自然の荒れ野にまさる、そんな人がつくる荒れ野の只中、罪の只中に、ご自分の身を置かれるためでした。一三節、
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」
イエスさまが四十日間、荒れ野にとどまられたとあります。先週の灰の水曜日から受難節に入りましたが、この季節が「四旬節」と呼ばれることがあるのは、復活日、イースターまでの期間が、日曜日を除いて四十日間だからです。大切なのは「四十」という数です。四十という数字は、聖書では完全数と呼ばれ、聖なるもの、永遠なるものを表わします。いつでも、どこにでも、ということです。一生涯、わたしたちが生きている限り、荒れ野のような罪が、いつでも、どこにでもあるのだということです。
その荒れ野で、イエスさまはサタンから罪への誘惑を受けられ、野獣と一緒におられた、と続いています。とてもグロテスクな感じを受けられるかも知れません。しかし考えてみれば、わたしたち自身、いつも神様の慈しみの中に生きていると言いながら、そうでないものに取り囲まれています。もし、それを悪魔的と言うとすれば、神の部分と悪魔の部分というのはそれほど簡単には分けられない、見分けることのできないものなのでしょう。わたしたちが生きている限り、わたしたちの人生にはいつもその両方が同時に起こっている、そう言ってよいでしょう。
そして何と言っても、その野獣たちこそ、罪に支配され、荒の野のように見捨てられている、わたしたち自身のことです。イエスさまは、罪人として打ち捨てられ、顧みられることのなかった人々と、いつも一緒にいてくださり、罪の赦しを宣言されたのでした。そのようにして、神と人との関係、人と人との関係を全く新しく回復してくださいました。
イエスさまは、そういう悪魔的なもの、罪ある者たちと一緒におられました。がしかし、そのイエスさまに「天使たちが仕えていた」のです。イエスさまが罪に苦しむ人々と共にいてくださり、と同時に、天使たちによって支えられていました。
ここが大切なところです。つまり、罪にまみれ苦しむわたしたちが、共にいてくださるイエスさまによって、いつも支えられているのだ、ということです。とすれば、この荒れ野での出来事が意味することは、たくさんのあらゆる誘惑に勝たなければいけないというような道徳的な勧めではなく、わたしたちも生きている限り、こういう悪魔的なものに出会い、罪によって支配され、苦しみを受けるけれども、その中でこそ、イエスさまは罪にまみれたわたしたちをそのままに受け入れ、愛し、支えられてくださっているだということです。
もちろん正しく、清い者として生きていきたいと願うことは、人としてとても自然で、また、とても大切なことです。しかし正しいことだけを良しとするのなら、その人は自分のことを、イエスさまの弟子ではなく、自分の正しさによって人を裁き、切り捨てていた律法学者のひとりではないかと反省してみる必要があります。
イエスさまはそのように裁かれ、見捨てられていた徴税人や病人たち、罪人の友となられました。そのためにこそ、ご自身が悪魔の誘惑に遭わなければなりませんでした。そのようにして罪深いわたしたちのただ中に、いつも共にいてくださるのです。
イエス・キリストは、誘惑も何も受けない神の子ではありません。ヘブライ人への手紙にも記されている通り、イエス・キリストは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(四・一五)。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(二・一八)と。それこそまさに、わたしたち人間の世界、罪の世界の只中にまで来て、十字架を背負ってくださったイエス・キリストの姿そのものです。
■喜びのおとずれ
そんな罪への誘惑と試練を突き抜けて始まったイエスさまの使命、務めとは何だったでしょうか。それはただひとつ、神のみ国の到来というよき知らせ、福音を告げ知らせることでした。一四節から一五節、
「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
「神の国」とは「神の支配」を意味します。言ってみれば「神ご自身の到来」です。確かに今、わたしたちの目前には、神の義が行われているとは到底言えないような現実が横たわっています。地上には悪が蔓延(はびこ)り、時に、いえ、しばしば悪い者が勝利し、正しい者が泣きを見、弱い者がいつも損をしています。しかしそんな地上に、神の義が打ち立てられ、神の愛が満ち溢れるために、イエスさまは来られたのです。それは、神ご自身が来られることであって、わたしたち人間がそれを来たらせるものではありません。神の国は、わたしたちの努力によるのではありません。罪人の国のただ中に、ただ一方的に、神が来たらせてくださるものです。
では、わたしたち人間は神が来たらせてくださるその国を、ただ座して待つだけでよいのでしょうか。そうではありません。「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われています。「悔い改める」とは、自分中心の生活から、 人と人の間に愛をもって共にいてくださる神中心に生きることです。人の中にいてくださる神が救いと恵みをもたらしてくださるという、その「喜びのおとずれ」を信じることです。
「悲しみや暗さや、運命の力」を信じるのではありません。
それどころか、その反対に、福音を信じる人は「悲しみや暗さや、運命の力」を信じません。このことが大切です。希望のない時代にあっても、なお希望をもって信じる。自分のまわりにも、どこにも暗さが一杯のときに、その暗さに惑わされない。そして、ただひとえに神の国の到来を、神の愛の御手が今ここに差し出されていることを信じ続けるのです。 今がどれほど荒れ野のようなときであっても、いえ、そのようなときにこそ、イエスさまは罪のただ中にわが身を置いて、わたしたちのために悔い改めと福音を宣べ伝えられました。獣と天使と共に過ごされたその姿は、十字架の上で、この上もない辱(はずかし)めさに身を晒しながらも、自らのいのちをもってわたしたちに福音を、救いへの道を示された、その美しい姿と重なります。レントの季節、自らの罪を悔い改めつつ、しかしその罪の只中に来てくださったイエスさまを見つめつつ、ご一緒に希望の内を歩んで行きましょう。