小倉日明教会

『金持ちとラザロ』

ルカによる福音書 16章 14〜31節

2024年 4月 14日 復活節第3主日礼拝

ルカによる福音書 16章 14〜31節

『金持ちとラザロ』

【奨励】 川辺 正直 役員

絵本作家 東 君平

 おはようございます。「おはようどうわ」、「ひとくちどうわ」、「あかちゃんえほん」などの作品で知られる東君平さんという絵本作家であり、童話作家でもある方がいらっしゃいました。

 東君平さんは46歳の若さで亡くなっているのですが、100冊以上の本を出しています。切り絵で描かれた画風には独特の素朴さがあって温かさが伝わってきます。

 彼は、神戸の大病院の院長の息子として生まれるのです。幼い頃はずいぶん裕福な暮らしをしていました。地元でも有名な名門の小学校に通い、何一つ不自由のない生活をしていたのです。

 ところが、中学校1年生の時に、お父さんが死んでしまうのです。家は破産して、一家はバラバラになります。妹さんと一緒に、西伊豆の祖母の家に預けられるのですが、折り合いが悪く、彼一人だけが静岡県の遠い親戚のところにやられるのです。

 そこで、鰹節工場を手伝ったり、薪割りをしたり、肥料になる鶏の糞を詰めた俵を担いだり、大変苦労するのです。中卒で東京へ出て、バラバラになっていた母親を訪ねますが、あまりの貧しさに身をひくのです。何もかも行き詰まって熱海の写真屋の「トミオカ」に住み込み、そこで働くのです。その頃のことを彼は後に、『お正月』という詩にこのように書いています。

 『よく一人だけのお正月を過ごした。友達や仲間達はそれぞれの親や兄弟の待つ場所へ帰ってしまった。自分には帰る家がないから暮れのうちから一人きりになってじっとしていた。今年こそは新しい年を迎えると心が騒いだ、とは思っても、まるで裸足で大きく高い山に登るような前途しか無かった。』

 彼にとって、父とは生活の土台であり、帰るべき家であり、勇気の源のような存在だったのです。

 さて、本日の聖書の箇所は、ルカによる福音書16章14〜31節の主イエスが『金持ちとラザロ』の話をされた箇所です。金持ちとラザロが死んでどこへ行ったのか、そして、私たちは死んでどこへ行くのかということも考えながら、この箇所を読んでいきたいと思います。

あざ笑うファリサイ派の人々

 さて、イースターが終わって、またルカによる福音書に戻ってまいりました。本日の聖書の箇所のルカによる福音書16章14〜15節を見ますと、『金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』とあります。ファリサイ派の人々は、主イエスの話を聞いて、主イエスをあざ笑っていたとあります。彼らが聞いていた主イエスの話というのは、前回、お話ししました『不正な管理人のたとえ』です。不正の富である、地上の富を有効に用いて、永遠に価値あることのために使いなさいという話でした。ファリサイ派の人々は、主イエスの話に同意しなかったのです。『不正な管理人のたとえ』の最後の結論は、神様と富という2人の主人に仕えることはできないということでしたが、そのことを彼らはあざ笑っていたのです。ファリサイ派の人々は、2人の主人に仕えようとしていたのです。表面的には、神様に仕えているように振る舞いながら、本当のところは富に仕えていたのです。表面的には、経験な宗教的な指導者であることを装いながら、内面は貪欲であったのです。そのことを主イエスは見抜いておられるのです。そこで、主イエスは彼らを叱責されたのです。

 ファリサイ派の人々が教えていたのは、神様に愛されている者は金持ちになるということであったのです。すなわち、金持ちであることは、神様に愛されていることのしるしであると教えていたのです。今の私たちから見れば、このような教えは、非常に人間的な教えで、神様に祝福されることのない教えだと言うことができます。しかし、当時のファリサイ派の人々は、金持ちであるということは、その人が義人であることの証拠であると教えていたのです。彼らは、地上の富で友人を作るのではなく、金銭を好み、金銭を集めようとしていたのです。つまり、ファリサイ派の人々の生き方というのは、富を偶像としている生き方で、偶像礼拝の罪を犯している生き方であったのです。

 それで、ファリサイ派の人々があざ笑った機会を捉えて、主イエスは彼らに正しい教えを与えるのです。それは何かと言いますと、豊かであるから、神様に愛されていると思っていたら、それは間違いで、彼らの将来を保証するのは、金銭ではなくて、神様であるということなのです。特に、死後の生活を保証するのは、金銭ではなくて、神様であると主イエスは教えて下さったのです。それが、今日の聖書の箇所の次に出てくる、金持ちとラザロの物語なのです。

新しい時代が始まっている

 本日の聖書の箇所の16節を見ますと、『律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』と記されています。1回読んだだけでは、なかなか分かり難い内容だと思います。一つ一つ見てゆきますと、まず、『律法と預言者』というのは、いわゆる旧約聖書のことです。その旧約聖書がどこで終わったのかと言いますと、主イエスの先駆者として奉仕したバプテスマのヨハネが旧約聖書の時代の終わりの人物だと言うのです。バプテスマのヨハネは旧約聖書時代の最後の預言者なのです。旧約聖書時代の最後の預言者はマラキではないかとおっしゃられる方もおられるかもしれません。確かに、その通りだと言うこともできますが、マラキというのは、文章を書いて、後に預言書を残した預言者の最後の人物なのです。バプテスマのヨハネは、預言書を書かなかったけれども、彼は神様から遣わされた旧約聖書時代最後の預言者として奉仕を行ったのです。

 バプテスマのヨハネは、メシアである主イエスの登場の前から、神の国の福音を宣べ伝え始めました。つまり、旧約聖書が預言していた千年王国、メシア的王国が近いから、悔い改めて、神様を信じて、神の国に入りなさいというメッセージを語ったのです。そして、それは主イエスが伝えたメッセージでもあるのです。ですから、現在、私たちが伝えている十字架の福音とは異なった、その前の段階の福音が、神の国の福音と呼ばれるものなのです。バプテスマのヨハネと主イエスは、共に神の国の福音を宣べ伝えていたのです。そして、神の国の福音というのは、まさに旧約聖書が預言していたことの頂点で、そのことが今成就しようとしているのです。

 それから、次に『だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』と書かれていますが、『力ずくでそこに入ろうとしている』ということの意味が難解です。この言葉が出てくる時代背景ですが、神の国の福音を信じようとする民衆がどのような状況の中に立たされていたかということを考える必要があります。民衆は、ファリサイ派の人々の神学に縛られていたのです。つまり、口伝律法を中心とした教えの束縛の中に、民衆はいたのです。民衆が教わっていたのは、モーセの律法ではなく、モーセの律法から逸脱したファリサイ派の人々の口伝律法であったのです。そして、宗教的指導者たちは、主イエスをメシアだとは認めていないのです。今、このときも主イエスのことをあざ笑っているのです。

 従って、民衆が主イエスの言葉を聞いて、主イエスこそメシアであると決心して、受け容れようとした時に、宗教的指導者たちは妨害したのです。シンプルに主イエスの話を聞けば、この方がメシアであるということがわかるので、信じたい、しかし、宗教的指導者たちはそのことを妨害するということがあったのです。ということは、民衆にとっては、主イエスをメシアとして受け容れ、神の国に入るということは、信仰のための戦いであったのです。そのことを、主イエスは『だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』と語ったのです。ファリサイ派の人々が妨害しても、戦って、力ずくでもそこに入ろうとしていると語ったのです。

 このことは、遠い昔の出来事ではなく、現代に於いても、当てはまることだと思います。それはどういうことかと言いますと、単純に聖書を読み、単純に解き明かしのメッセージを聞いている方が、心の中からの深い確信を持って、主イエスこそ救い主である、ここに真理があると信じて、一歩を踏み出すというケースがあるのだということです。シンプルに聖書の語ることに耳を傾けていれば、主イエスが語っていることは真理だということが、素直に分かるのだと思います。しかし、その素直さに導かれて、決心しようとするときに、主イエスが生きておられた時代は、ファリサイ派の人々が妨害した、そして、今の時代は、社会が許さない、職場が許さない、友人たちが許さない、あるいは、家族が許さないということがあると思います。現代のユダヤ人の共同体の中でも、新約聖書は呪われた書物であって、キリスト者になるということは、ユダヤ人の共同体からは、受け入れられなくなるということを意味しているのです。そこまではないにしても、異教社会である日本で、キリスト者になって、霊的に成長し、自分の信仰を言い表すことのできる人は、神様の守りによって、信仰における戦いの結果、その信仰を手に入れている人だと言うことができると思いますし、私たちは諦めるべきではないと思うのです。

 主イエスは、『だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』とおっしゃられています。それは、なぜかと言いますと、主イエスによって語られている福音の内容があまりにも素晴らしいので、この福音なしでは生きてゆくことができない、この福音こそが私を生かしている力だという確信があるからこそ、戦うことができるのです。

律法の精神を本当に生かす

 次に、本日の聖書の箇所の17節には、『しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。』と記されています。この箇所も、難解で、意味が分かり難い箇所です。先程、ファリサイ派の人々はモーセの律法を教えると見せかけながら、実は口伝律法を教えていて、モーセの律法から逸脱していたということをお話しました。ファリサイ派の人々にとっては、モーセの律法よりも、口伝律法の方が重要であったのです。しかし、主イエスはファリサイ派の人々はモーセの律法を骨抜きにしているけれども、神様の律法であるモーセの律法は滅びることがない、ことごとく成就すると宣言されたのです。従って、主イエスは17節では、2つのことを対比しておられていて、『天地の消えうせる方が易しい。』とおっしゃられているのは、天地が消え失せない限り、律法の文字の一画もなくならないと言うのです。つまり、この世界が続く限りは、モーセの律法はことごとく成就するのだと、主イエスは教えておられるのです。

 そして、次の18節には、『妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。』とありますが、ここを読んでいる私たちにとっては、何かしら唐突に出てきた内容に思われる箇所です。これは、モーセの律法から逸脱していることの実例として、主イエスは離婚に関する教えを取り上げておられるのです。そのため、ここで突然、離婚に関する話が出てきているのです。当時、ファリサイ派の人々は、自分勝手な離婚に関する律法を作り上げていました。つまり、離婚と再婚を軽く考えていたのです。彼らは、別の気に入った女性と結婚するために、大した理由もなく、今の妻を離縁していたのです。そして、彼らは、このような形式を踏むならば、再婚しても姦通の罪を犯すことにはならないと考えていたのです。しかし、これは人間の目には正しく見えても、神様の目には、姦通の罪に当たることであり、神様はすべてをご存知であると、主イエスはおっしゃられたのです。主イエスは、このことを語ることで、主イエスの教えをあざ笑っているファリサイ派の人々を叱責し、モーセの律法はすべて成就するのだ、ファリサイ派の人々の口伝律法は神様の目には忌むべきものであるということを、はっきりさせたのです。そして、主イエスは、富は永遠の生活を保証するものではないということを教えるために、ここから本日の2番目の金持ちとラザロの物語が始まるのです。

金持ちとラザロの話

 本日の聖書の箇所の19節〜21節を見てみますと、『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。』とあります。金持ちは、名前が伏せられています。それに対して、ラザロは実名が出てきています。このことから、主イエスが語る金持ちとラザロの話は、たとえ話ではなく、実話であることがわかります。そして、ここから金持ちとラザロが対比されながら、語られるのです。そして、この金持ちと彼の兄弟たちは、ファリサイ派の人々の中の代表的な人々を象徴しています。ラザロは死後の命を信じて、生きている信者を象徴しているという対比があるのです。

 金持ちはどのように暮らしていたのでしょうか?金持ちは、『いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て』たのです。紫の衣というのは、非常に高価なものでした。紫の染料というのは、当時は、主に地中海で採れる小さな貝を潰して、その液から採ったものだったのです。ですから、紫の染料は非常に高価なものであったのです。柔らかい麻布というのは、細い麻で織った下着のことです。そして、この金持ちは、『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた』のです。ファリサイ派の人々の教えでは、金持ちであるならば、義人なのです。この金持ちは義人のはずなのですが、実際にはそうではないのです。彼は救われてはいないのです。この話の中では、この金持ちは救われてはいないと、主イエスはおっしゃられているのです。なぜかと言いますと、彼は隣人愛に欠けているのです。自分だけ贅沢に生活できれば、良いという生き方をしているのです。隣人愛が欠けている、これがこの金持ちが救われていないことの証拠なのです。隣人愛によって、救われる訳ではないのですが、救われて、生き方が変えられたら、隣人愛に生きるようになるのです。彼は、金持ちだから救われていない訳ではないのです。彼は、信仰がないから、救われていないのです。

 では、ラザロはどうなのでしょうか?本日の聖書の箇所では、この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていたのです。ラザロという実名が出てきています。この話がたとえ話であれば、実名は出てこないのです。従って、この話はたとえ話ではなくて、実話なのです。そして、このラザロはとても悲惨な状況の中にありました。彼は、できものだらけの貧しい人で、金持ちの門前で横たわっていたのです。彼は、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたのです。しかし、金持ちが食べ物をくれた訳ではなかったのです。さらに、この時代のユダヤ人の感覚で言うと、犬に食べられるとか、犬に舐められるというのは、人として最低の生活を表しているのです。そういう中で、犬までやってきて、ラザロのできものを舐めていたのです。

 ファリサイ派の人々の教えでは、ラザロは貧乏人ですので、ラザロは罪人だということになるのですが、実際はそうではありません。彼は、救われています。この後の箇所で、彼はアブラハムのすぐそばのパラダイスに入っているのです。ラザロは貧しいから、救われていた訳ではないのです。ラザロは神様を信頼していたから、義人であったのです。そして、金持ちとラザロ、この2人が死ぬのです。

死における逆転

 本日の聖書の箇所の22〜23節には、『やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。』とあります。まず、貧しいラザロが死にます。続いて、金持ちも死にます。ラザロと金持ちの魂が行った先は、全く対象的なところであったのです。ラザロは、死んだ後に、天使たちによって、宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたのです。『アブラハムのすぐそば』というのは、ユダヤ人たちが使っていた毒との表現です。私たち人間というのは、肉体と魂からできています。肉体は、時には幕屋とも呼ばれますが、肉体は地上での生涯において、朽ちてゆくものなのです。しかし、内側に宿っている魂は、死後、その魂が行くべきところに行くのです。その場所は、日本語で陰府(よみ)と呼ばれる場所です。ヘブライ語では、シオールという言葉になり、ギリシア語ではハデスという言葉となります。ですから、シオールはハデスであり、同時に陰府でもあるのです。死後、魂は行くべき所が、陰府、シオールまたはハデスと呼ばれる場所なのです。そして、ハデスと呼ばれる場所は、2つの場所に分かれているのです。そのことが、この金持ちとラザロの話で明らかになるのです。1つはアブラハムのすぐそばで、これは大変祝福された状態を表しています。ここは、義人が行く場所なのです。ここは、別の言い方をするとパラダイスという呼び名になるのです。一方、罪人が行くところは、それとは対象的な苦しみの場所で、これが狭い意味でのシオール、ハデスなのです。

 繰り返し説明しますと、陰府(よみ)と呼ばれる場所があり、そこが2つに区分されて、義人が行く、祝福の場所を、アブラハムのすぐそばと言うのです。同時に、そこはパラダイスとも呼ばれます。罪人の魂が行く場所は、苦しみの場所です。そこは、狭い意味でのシオール、ハデスなのです。狭い意味での陰府と呼ばれる苦しみの場所なのです。ラザロはアブラハムのすぐそばに連れてゆかれて、祝福された状態に置かれているのです。それで、ラザロの魂は喜んでいるわけです。なぜなら、ラザロは義人であったから、そこに行けたのです。ここでは、ファリサイ派の人々の教えとは正反対のことが起こっているのです。それに対して、金持ちの魂は、死後、どこに行ったのかと言いますと、苦しみの場所、狭い意味でのハデスなのです。金持ちは苦しんだのです。23節を見ますと、『そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、』とありますが、このときのこの金持ちの苦しみというのはどれほどのものであったのでしょうか。本当に苦しかったと思います。彼は、『宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。』とあります。このラザロの状態、つまり、本来であれば金持ちがアブラハムのすぐそばに行き、貧乏人のラザロが苦しみの場所であるハデスに行くというのが、ファリサイ派の人々の教えであった訳です。ところが、全く正反対のことがこの物語の中で起きているのです。それでは、この金持ちは次にどうするのでしょうか。

悔い改めなかった金持ち

 本日の聖書の箇所の24〜26節には、『そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』』とあります。ここでのアブラハムの答えというのは、冷たく思うかもしれませんが、神様である主イエスご自身の答えなのです。神様の厳粛な原則がここに示されているのです。

 金持ちは苦しみの中から、アブラハムに向かって、大声で言いました。この金持ちは、アブラハムの子孫です。つまり、アブラハムに始まり、イサク、ヤコブとずっと続いて来ている家系の中の1人であったのです。ファリサイ派の人々の教えによれば、アブラハムの子孫であれば、そのままで祝福されて、神の国に入れるはずだったのです。そかし、そうはなっていないのです。この金持ちは、苦しみながらアブラハムに頼むのです。『ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。』と金持ちは頼むのです。アブラハムはそれに対して、大きな淵があるので、私たちがいる場所とあなたがいる場所を行き来することは不可能だと、きっぱりと答えるのです。

 このことから、ハデスでは、アブラハムのすぐそばと狭い意味での苦しみの場所であるハデスとは、お互いを見ることはできるのです。しかし、大きな淵があるので、お互いに行き来することはできないのだということが明らかにされたのです。そのため、この金持ちの『ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください』という願いが拒絶されたのです。

 そこで、この金持ちは次に、27〜31節に、『金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』』とありますように、このような苦しみの場所に、5人の兄弟たちには来て欲しくないと考えたのです。5人の兄弟たちに、ラザロを使いとして送って、彼らに警告を伝えて下さいと願ったのです。

 アブラハムは何と答えたのでしょうか。そのようなことをしなくても、彼らにはモーセと預言者がいる、つまりヘブライ語聖書があるのだ、すなわち旧約聖書があるのだ、つまり彼らには神様の言葉があるから、聖書を読んで、そこに書かれていることをそのまま受け止めれば、何をすべきかが分かるはずなのだ、と答えたのです。しかし、この金持ちは食い下がります。復活したラザロが行けば、5人の兄弟たちは信じるはずだと言うのです。この金持ちの気持ちは理解できますが、ところがアブラハムの答えは、人間のあり様を考えると、そうはならないと言うのです。どんな奇跡が起こっても、その人の心の中に、神様の言葉に耳を傾けようとする思いがない限り、人は信じるものではないと言うのです。これは、人間の悲しい現実のあり方を示しています。そして、このことは、主イエスご自身の経験されたことでもあるのです。主イエスがメシアであるというしるしを、奇跡を繰り返し行われました。しかし、人々は主イエスの言葉に耳を傾けようという思いがないので、いくら奇跡を行っても信じようとはしなかったのです。奇跡を見ても、人は神様を信じる訳ではない。それ故、誰かが死者の中から復活して、福音のメッセージを伝えても、罪人はそう簡単には福音を信じるものではないと言うのです。

み言葉によってこそ

 本日の聖書の箇所の金持ちとラザロに起きたことは、私たちにも起きることなのです。私たちが死んで、よみがえりの身体が与えられた時に、本当に聖書に書いてある通りだと、考えることと思います。このように、ファリサイ派の人々の誤った富を重視する教えに対して、この金持ちとラザロの物語によって、富は何の保証も与えないのだという教えが、主イエスによって語られたのです。従って、今、聖書を読んで、聖書に書かれていることをそのまま受け入れることが大切だと思います。

 科学技術が進んだ21世紀に於いて、私たちは奇跡をこの目で見れば信じられるのにと思うことがあるのではないでしょうか。しかし、聖書はそうではないのだと言っているのです。たとえ、奇跡を目の当たりにしたとしても、聖書に耳を傾けないのなら、その奇跡に驚くことはあったとしても、神様を信じることも、神様に立ち帰って生きることもないのです。信仰は、聖書で語られているみ言葉の一つ一つを通してのみ、起こされて行くものだからです。本日の聖書の箇所で、モーセと預言者、すなわち聖書に耳を傾けるがよい、と言われているのは、今とは異なり、当時、聖書は読むものではなく聞くものであったからです。人々は会堂で朗読される聖書のみ言葉を聞くことによって、信仰を養っていたのです。本日の聖書の箇所の金持ちもその5人の兄弟たちも、会堂で行われる礼拝には出席していたはずなのです。そして、聖書の朗読を聞いていたはずなのです。アブラハムに対して、『父アブラハムよ』と呼びかけている金持ちが聖書を知らなかったはずがないのです。ですから『聖書に耳を傾けて生きよ』とは、礼拝に出席して聖書のみ言葉に耳を傾けること以上のことを問うているのです。それは、聖書のみ言葉を通して語られる、神様のみ心に聞き従って生きよ、ということです。ここでの『聖書に耳を傾けて生きよ』とは、み言葉を聞き流すのではなく、聖書を通して語られる神様のみ心をしっかり受け止めて生きよ、ということなのです。それは、神様を信じ、神様に立ち帰って生きるのに、聖書のみ言葉と説教のほかに必要なものは何もないということでもあるのです。聖書の言葉だけで十分なのです。この金持ちは、み言葉を与えられていなかったのではありません。与えられていたのです。しかし、彼は、聖書の言葉に、本当には耳を傾けて生きようとしませんでした。聖書が語る神様の言葉を聞いてはいても、心で受け止めようとはしなかったのです。ですから、神様から預かっている多くの良いものを、神様のために、隣人のために用いるのではなく、自分の楽しみのために用いたのです。

ラザロという名が与えられている

 貧しい人にはラザロという名前が与えられていました。ラザロという名前は、『神は助ける』、『神が助けてくださる者』という意味の名前です。まさにラザロは、神様が助けて下さることを信じて、神様の憐れみにすがって生きました。自分の力では自分の人生をどうすることもできなかったラザロの姿は、自分の力を手放し、神様の憐れみにのみ頼って生きる者の姿にほかなりません。ラザロは貧しさと苦しさを抱えて生きたから、死後、その報いとして慰めを与えられたのではありません。神様が助けてくださり、憐れんでくださることを信じて生きたラザロを、神様は確かに助け、憐れんでくださり、死を越えて慰めを与えてくださったのです。金持ちの名前を聖書は伝えていません。ここにも逆転が示されています。そして、名前に皮肉が込められているのです。『神は助ける』という名前を持つ者に、人からの助けがないからです。『人間扱いされていないラザロという名前を持つ者が助けられるべきだ』ということが、この名前には込められていると思います。ラザロを助けようとしない金持ちは、人間性を喪失しています。金持ちが名前で呼ばれない理由はそこにもあるのではないでしょうか。しかし、彼にも、ラザロという名前が与えられているはずなのです。この金持ちだけではありません。私たち一人ひとりにも、ラザロという名前が与えられているはずなのです。私たち一人ひとりに、『神は助ける』という約束が与えられているからです。私たち一人ひとりもまた、『神が助けてくださる者』に他ならないからです。私たちを助けてくださるという神様の意志が、聖書を通して告げられているからです。この金持ちは、神様のみ心を受け止めることはありませんでした。しかし、私たちはこのみ心をしっかりと受け止め、自分の力に頼った自分を中心とする生き方をするのではなく、神様に立ち帰り、神様が私たちを助け、憐れんでくださることを信じて生きて行きたいと思います。誰もが地上の生涯を終えて、死を迎えます。しかし、神様の助けと憐れみは、死によって妨げられることはありません。今日の聖書の箇所が伝えているのは、死を越えて神様は私たちを助け、憐れんでくださるということです。それ故、私たちは聖書に耳を傾け、神様の助けと憐れみを信じて生きる中で、神様の助けと憐れみに感謝して、一人一人が神様から預かっているものを、神様と隣人のために用いて行きたいと思います。私たちは、心から聖書が語る一つ一つの言葉に耳を傾け、主イエスに従って生きてゆきたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。