■闇の中に
暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真っ暗であったところに、急に家の中の明るい光が輝きます。その光の中に、弾けるような家の中の笑い声が聞えてきます。だれかを送り出そうというのでしょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送る、にぎやかな挨拶が聞えてきます。そして、戸が閉じられます。道はまた、もとのままの暗さに帰ってしまいます。出て来た人も闇の中に呑まれ、あたりは前と同じように闇に包まれます。
こんな経験をなさったことはないでしょうか。
ルカが描くクリスマスの夜の様子も、それととてもよく似ています。待ち望んでいたはずの御子イエスの誕生の様子は、わが子の誕生を祝うときのにぎやかさも、溢れるほどの喜びも何一つないままに、ひっそりと、実に淡々と、いえ、あたかもすべてが闇の中に沈んでいるかのようです。
ベツレヘムの街角だけでなく、このすぐ後に描かれる郊外の野原も、暗い闇におおわれていました。羊も、それを守る羊飼も、どこにいるかよく分らないような暗さの中にありました。そのとき突然、天が開けます。そして主の栄光があたりを照らし出しました。今まで見えなかったものが急に見えるようになります。開かれたところから、天が覗(のぞ)けるように、天の中の明るさ、賑やかさが零(こぼ)れ出て来たように思われました。やがて天使のみ告げが終ると、天の戸が閉ったように光がなくなります。羊も羊飼もどこかに埋もれたように見えなくなってしまいました。これが、御子イエスが誕生された、あの晩の様子でした。
地上はどこまでも暗く沈んでいました。しかしそれは、夜が暗かったというだけでなく、ローマ皇帝アウグストゥスから出た勅命によって、人々の心も闇に包まれていました。
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」
紀元前七年、 クリニウスという人がシリア州の総督であった時に、皇帝アウグストゥスの強い要求により、民衆の反対を押し切って、いわゆる住民登録、つまり税金の台帳作りが始められました。エジプトでもほぼ同じ時期に、やはりアウグストゥスの命令によって住民登録が行われ、それをきっかけに民衆の反乱が起こったと言われています。ユダヤでの、文献的にはっきりと確認できる人口調査は紀元六年のことですが、この人口調査の時にも反乱が起こっています。その反乱について、ルカが使徒言行録五章三七節に「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」と記しています。アウグストゥスの命令によって強行された住民登録が、これに反撥するユダヤ人たちの反ローマ勢力―「ゼロータイ(熱心党)」と呼ばれる抵抗運動の始まりになったことも明らかになっています。
住民調査が、支配される民衆にとってどれほどの圧迫と反抗をもたらすのか。そのことをよくよく知っていたはずのルカが、そのような権力者による圧政という闇の中に、御子イエスの誕生を描いています。住民登録によって、ユダヤ人は皆、いわば敵によって数えられ、調べ上げられ、容赦なく税を取立てられることになります。そればかりか登録の際には、ローマ皇帝に対して「わが主、わが王」と告白することさえ求められました。
人々の心もまた、闇に覆われていました。
■沈黙の中に
御子イエス誕生の記事は、わずか数行の言葉でしかありません。
しかも、その出来事をめぐる人々の様子だけで、牧歌的な風景も、何の説明もありません。クリスマスは、ただ闇の中に沈んでいるだけでなく、沈黙に支配されているかのようです。
その夜、地上は眠っていました。天に輝く光に気がついた人もいません。ベツレヘムという小さな町の、飼い葉桶の中に赤ん坊が生れても、天使からお告げを受けた羊飼たちが来るまで、だれも何が起ったかを知りませんでした。生まれたばかりの赤ん坊だけでなく、人々は皆、眠っていました。
だれもそれに気づきませんでした。ただ神だけが働いておられました。
神の働き、それは、御子をこの世に遣わされることです。神は闇の中に沈むこの世界に、御子を遣わされました。それなのに、なぜ、世界はこんなに静かだったのでしょう。なぜ、そのことに気づかなかったのでしょうか。
それは、飼い葉桶の中に来られた救い主が、まことの救い主であったからこそ、だれも気づかなかった、だれにも知られなかったのだ、と言うほかありません。
人々が、救い主を待ち望んでいなかったというのではありません。ローマの圧倒的な力の下にあって、問題は無数にありました。そのため、だれもが救い主を求めていました。当時、救い主という名は、決して珍しいものではありませんでした。一番分りやすい救い主は、力ある者、軍事的な指導者でした。ローマの皇帝の中で、神として崇められた者こそ、皇帝アウグストゥスでした。アウグストゥスは生きているときに、すでに神として礼拝されていたと伝えられています。そういう人につけられる称号のひとつが、救い主でした。
一方、ヘンデルのメサイアで歌われるハレルヤ・コーラスの「王の王、主の主」という言葉は、新約聖書、ヨハネの黙示録から採られたものですが、それは、そのローマ皇帝を王とし、主とし、神とすることを強制する国家に抗い、イエス・キリストこそ、王の王、主の主である、とはっきりと告白する信仰の言葉でした。
政治的、軍事的な王が救い主であるとすれば、その王が崇められるのは、当然のことでしょう。しかし、ダビデの町に生まれたもう一人の王、救い主イエス・キリストが、どこにも泊まるところなく、汚れた飼い葉桶の中に生まれ、宿屋に居あわせた人々や羊飼たちによってしか、救い主として知られていなかったということこそ、実に大切なことでした。
なぜなら、この救い主がもたらした救いは、この世の力による目に見える救いではない、決してあからさまに語られることのできない、人間のまことの救いであったからです。
■救いとは
まことの救いとは、何でしょう。
人間はこのことに、どれだけ迷ってきたことでしょうか。どの時代の人間も、どの国の人間も、救いを求めてきました。その中でも人間に最も分かりよい救いは、政治的、経済的、軍事的な救いでした。だからこそローマ皇帝も救い主と呼ばれるようになりました。そしてそれが救いであるなら、それはだれの目にもすぐに見えるものであったに違いありません。
しかし、そういう救いが「まことの救い」であると、だれが言うことができるでしょう。人間の生活、人生は、目に見える外側のことで尽せないばかりか、実は目には見えない内側のことの方がもっと大切だからです。内にあって、満足しないような救いは、どんなに豊かに見えても、何にもならないでしょう。
パスカルが「人間は独りで死ぬ」と言いました。それは、人間の生活が孤独であることを示していますが、同時に人間の救いが、どんなに個人的なものであるかということを示しています。人間の生活はもちろん、衣食住など外の物質的な面でも満足できるものでなければなりません。しかしそうなったからといって、だれもほんとうには満足しないものです。それは、内に真実の満足がなければならないということもありますが、それよりは、わたしたちの生活、人生が、自分にだけしか分らないものだからです。いえ、自分と神にだけしか分らないものだからです。
わたしたちはよく、心の底から、という言葉を口にします。たとえば、心の底から満足する、と。しかし、心の底と言われる、底とは何でしょうか。心の底とは言っても、その底をどうやって他の人に分ってもらうことができるでしょうか。自分の心の底など、どんなに語ってみても語り尽くすことなどできるものではありません。自分の歯の痛いのを他人に知ってもらおうとする時と同じです。いくら話をしても分ってはもらえないでしょう。同じように、わたしたち自身のことも、どう解決しようとしても、根本的には人の力では、また物質をもっては解決のしようがありません。外のことがどんなに整えられても、解決しないことが残るのではないでしょうか。
たとえば、世の中の制度や環境がどれだけ整えられるようになったとしても、どうにもならないことが人間には残るものです。 だれの生活にも付きまとう、幸福とか不幸とか、才能があるとかないとか、丈夫な体に生れついたか弱いかなど、数えあげれば切りがないほどに割り切ってしまえないことがあるものです。それはまた、だれに持っていっても解決のつけようのないことです。ただ、自分と神との間に解決するほかありません。
その上、いくら説明しても無駄なだけでなく、説明したくない、だれにも知られたくないために説明できない、という場合も決して少なくないでしょう。そのときには、言葉を尽くして話をしても分らないというのではなく、話をしたくないのですから、さらに難しいことになります。
このように考えると、人間の問題は、何でも明らかにしたらいいというものではなく、明瞭にできないし、明瞭にしたくないものがあるということが分かってきます。人間の問題は、人が互いに話し合って解決できるものではなく、ただ神との間でだけ、取り上げ、解決するほかないことが、はっきりしてくる、そう思わずにおれません。
■裁くのではなく、赦す
だからこそ、飼葉桶に眠る救い主が、だれにも知られない形でこの世に来るということも、少しも不思議なことではないのです。なぜなら、ほんとうの解決は、誰も知らないところで、しかし、神との間でだけ行われるからです。そこにだけ、まことの救いがあるからです。神は、人々が眠っている間に、御子をこの世にお送りになって、だれにも知られずに行われる、しかしそれゆえに、最も徹底した救いをお与えになったのです。
この後の「聖餐式」に「あなたのために主が血を流されたことを覚え」という言葉があるように、「あなたのために、救い主がお生れになった」とここに言われています。それは、あなたがた一人ひとりのために、ということでしょう。救い主はあなたがたの救い主ですが、実は、あなたの救い主であるからです。
その神の救いは、どのようにして与えられるでしょうか。
わたしたちは神の救いを考えるときにいつも、とても単純な考え方をします。神が悪人に勝ってくださる。もはや正しい者は敗北するしかないのかと思うときに、突然、神がどこかから現われて来て、悪人を滅ぼし、善人は神と共に勝利をおさめることになる、それが救いだと考えます。
ところが、この世の中の実状はどうでしょうか。悪いことをする人間がいつも得をして、神に従おうとする者はいたずらに自分を清めるだけで、結局は泣き寝入りになってしまうのではないか、と思われるような状態です。神の戦いは景気のいい勝利ではなく、いつも何か歯切れの悪い、押され気味で、受身になっているように見えます。神は闇の中に沈黙しておられる、そう思わせるほどです。
しかしそれは、神の戦いが分っていないからです。神の戦い方は、わたしたち人間のやり方とは違うようです。神は、悪人をみな滅ぼし尽くして、勝利をしようとはされません。神はむしろ、すべての罪人である人間を救って、それによって勝利しようとされるのです。「すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが」(ローマ三・二五、口語訳)と聖書に書いてあります。そうして忍耐をもって見のがされたが、もう我慢ができなくなって、人間を罰せられたというのではなく、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(同)と言います。これが、神の姿、御子イエスの姿です。もう赦せないと言って滅ぼすのではなく、罪人を赦し、救いを与えることによって、「救い主」となられたのです。
クリスマスの救いも、そうでした。クリスマスには大変な危険がありました。身重になったマリアが、遠い処から旅をしてベツレヘムに来たのです。この旅のことだけを考えてみても、クリスマスの神の計画は、いつどこで崩れるかも知れないようなものです。身重の女性の旅、宿がないこと、その上、ヘロデはこの子を捜して殺そうとさえしました(マタイ二・一六~一八)。いわば御子は、人間の敵意と危険という闇の中をくぐりぬけるようにして、漸く地上に辿り着いたという様子でした。
そして何よりも、飼い葉桶の中に眠る王なる御子。これは、普通に考えられるような意味での救い主の誕生からは、おおよそかけ離れたものです。このような危うい、危険きわまりない方法で、神は救いを成就せられるのです。それが、救いだからです。裁きではないからです。救うことによって、勝利しようとされたからです。
身を危険にさらすような方法で、救い主はこの世に来られました。だれにも知られないような形で、いわば、この世に潜入して来られたのだと言ってもいいでしょう。飼い葉桶は、汚れて臭う、まるで人々の闇の中に埋もれてしまって、見えなくなってしまうような有様でした。救い主は、その飼い葉桶の中に来られたのです。人知れずと言うか、人の罪汚れに沈むようにして、救い主が来られたということが、救いにとって大事なことでした。
救い主は、凱旋将軍のように、自分をきわ立たせて見せるような仕方で来られたのではなかったのです。そこに、この救い主の意味がありました。救い主は、人々と同じ立場に身を置くために来られたのです。人々の闇の中に入って、全く人々と同じものになり切ろうとされたのです。他の人を救って、自分も助かるというのではなくて、他の人と全く同じになって、その人のために死んで、救いを成就しようというのです。 この救い主の救いは、人々には、簡単には理解されなかったようです。それは、その内容が難しかったからではなく、人間の気がつかない、しかも、もっとも大切な救いであったからです。それは、人間を闇の中から、弱さや汚れ、醜さや愚かさのままに救う救いであったのです。そのためにこそ、飼い葉桶の姿が必要だったのです。