小倉日明教会

『12弟子の帰還』

ルカによる福音書 9章 7〜17節

2023年1月1日(日) 降誕節第2主日礼拝

ルカによる福音書 9章 7〜17節

『12弟子の帰還』

【奨励】 川辺 正直 役員

放送作家 小山薫堂

 あけましておめでとうございます。皆さんは、昨年はいかが過ごされた1年であったのでしょうか。ここのところ、3年間、新型コロナ感染症で大変な時代になったなあと思っておりました。しかし、昨年はウクライナで戦争までも始まって、私たちは激動の時代の証人となっていると思わざるを得ません。この寒さの厳しい季節の中で、捕虜となって、あるいは、強制的に移住させられて、あるいは、止む無く避難せざるを得なくなって、収容所の獄舎の中や遠くの移住先や避難先で、どれほど多くの方々が、孤独の内に耐える日々を過ごしているのかということを思わざるを得ません。1日も早く平和が取り戻されることを信じ、祈りたいと思います。

 さて、日本で最も人気のあるご当地キャラに『くまモン』があります。『くまモン』の生みの親は2人います。一人は、キャラクターデザインを手掛けたデザイナーの水野学さんと、「くまもとサプライズ」の仕掛け人としてプロデュースを行う小山薫堂(こやまくんどう)さんです。放送作家にして脚本家である小山薫堂さんは、「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」などのテレビ番組をヒットさせ、映画「おくりびと」でも有名な方です。小山さんは山形にある芸術大学で月に1回講義を担当していたことがありました。その時は、全国から、小山さんを慕って学生が殺到したそうです。その1人に直哉という学生がいました。小山さんに食らい付いて質問し、学びとろうとした積極的な学生です。話をしていると実は、直哉君は大学生にして80万円も貯金があるということが分かったのです。それで、小山さんは冗談で「銀座のスナックに連れて行ってくれ」と頼むのです。当然、直哉君は、「それだけは勘弁してください」と断るのです。と言うのは、その80万円は小学生の頃からお年玉を貯めて積み立てたもので、世界1周旅行のための軍資金だったからです。しかし、後から「20万円ならいいです」というメールが届いたのです。小山さんは、「えらい!すぐに東京へ出て来い!私が大人の人生のたしなみを君に教えてやるから。父より」と返信したそうです。

 直哉君は東京に着くなり20万円入りの封筒を小山さんに渡します。見ると小山さんの隣に見知らぬテレビのプロデューサーがいるのです。「この人も誘っていいだろ。」直哉君としては、顔面をひきつらせながらも「はい」としか言えなかったそうです。そして、高級フランス料理の店に入って行ったのです。するとそこに、たまたまラルフローレンの副社長がいたのです。小山さんの知り合いでした。小山さんはこの副社長の食費も20万から払っていくのです。そして、東京の一流店で散々飲み食いした後、釣銭の入った封筒を直哉君は受け取ったのです。中身を見るとなんと19万9,990円が入っていたというのです。大人のたしなみの授業料は10円だったのです。びっくりするやら、感動するやら。天下の名脚本家と最高の時間を過ごした上に、それがおごりだったという落ちです。向学心のある若者には期待以上の対応をしてあげようという小山さんの教えは、直哉君の中に強く残ったに違いありません。

 ところで、どうして小山さんはこんな大盤振る舞いをしてあげたのでしょうか。それは、若い青年が20万円という精一杯の代価を払ってでも、この先生には学び取れる何かがあると信じてくれたからです。そして、小山さんはその信頼を何よりも喜んだのです。

 本日の聖書の箇所の前半では、領主ヘロデが主イエスに会ってみたいと思ったことが記されており、後半では、悪霊の追放や病気の癒しとは違う、また嵐を静めるのとも違う、もう1つの大きな奇跡の物語が記されています。主イエスが、男だけで5千人、ですから全部ではもっと沢山の人々を、弟子たちの手を通して、五つのパンと二匹の魚で満腹になさった、という奇跡です。ヘロデの戸惑いと5千人の給食の奇跡を通して、私たちがどのような信仰に招かれているのかということを学びたいと思います。

ヘロデの戸惑い

 さて、現在、読んでおりますルカによる福音書の9章の1〜50節は、ルカによる福音書の分水嶺とも言うべきクライマックスだと思います。主イエスは、4章14節から、ガリラヤでの伝道を始められました。そして、この9章1〜50節が終わると、何が始まるのかと言いますと、9章51節〜19章10節のエルサレムへの旅が始まるのです。すなわち、ルカが4章14節から8章の終わりまでの前半部分での中心テーマとしているのは、「主イエスは誰か?」ということでした。それに対して、9章51節〜19章10節の長い後半部分での中心テーマは、「主イエスは何のために来られたのか?」という受難と復活となってゆくのです。その主イエスのエルサレムへの旅とガリラヤ伝道との間の架け橋となっているのが、この9章1〜50節なのです。そして、この9章1〜50節の中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。主イエスがなぜそうしておられるのかと言いますと、主イエスは教会時代への準備を始められているのです。ご自分がこの世から去られた後、教会が設立されて、教会時代に入ってゆくわけですが、使徒と呼ばれる弟子たちが主イエスの働きを継続して行く、そのための準備がルカによる福音書のこの9章から始まっているのです。

 主イエスが行われた弟子たちに対する訓練とはどのようなものであったのでしょうか。1つは、ご自分が何者であるかを教えることです。弟子たちのメシアに対する理解が不十分なのです。しかし、主イエスは、神が人となられたメシアであることが、まだ理解できていない段階にいたのです。ですから、ご自分が何者であるかを教えることは、弟子たちの訓練の第1の目的であったのです。そして、2つ目の目的は、主イエスが何のために来られたのかということを教えることです。即ち、メシアの受難について教えることです。このことも、当時のユダヤ社会でのメシア理解に捕われていた弟子たちにはとても受け容れ難かったのです。そして、3つ目が、弟子として受ける苦しみについて教えることであったのです。主イエスが人々を救うために苦しみを受けたのであれば、主イエスに従う弟子たちも当然その苦しみを受けるのだということです。この3つが、弟子訓練の内容であったのです。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第9章7節以下は、1〜6節の続きです。9章の1〜6節では、主イエスが12人の弟子たちをガリラヤの村々へと派遣なさったことが語られていました。それは、2節にありますように、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」です。12人の弟子たちはそのための力と権能を授けられて派遣され、そして、6節にありますように「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。それまでは主イエスお一人によってなされていた、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒すという働きが、今度は主イエスに派遣された12人の弟子たちによっても、ガリラヤの町々村々で活発に行われていったのです。その結果、主イエスの噂はガリラヤ中に広まっていきました。そしてそれが、ガリラヤを支配していた領主ヘロデの耳にも入ったのです。

 本日の箇所の7〜9節では、主イエスのことを聞いたヘロデが覚えた戸惑いが挿入句的に12弟子の派遣と10〜17節の12弟子の帰還の間に記されていて、サンドイッチ構造となっていることが分かります。本来は12弟子が派遣され、12弟子が帰還した、という構造でも良かったわけですが、ルカは意図的に、挿入句的にヘロデのエピソードを挟み込んでいるのです。

 ヘロデは何を戸惑ったのでしょうか。それは、主イエスについて、いろいろな人がいろいろなことを言っていたからだ、ということが7、8節に語られています。「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。」。この箇所は、12弟子が派遣され、帰還する間に挿入された箇所ですので、『ところで、』と記載されているのです。先にも述べましたが、ルカによる福音書の前半のガリラヤ伝道における、弟子訓練の大きな目的の1つ目は、主イエスとは何者であるかということを弟子たちに教えることです。弟子たちのメシアに対する理解が不十分で、主イエスは、神が人となられたメシアであることが、まだ理解できていない段階にいたのです。彼らは、体験を通して、教えを通して、主イエスがどういうお方であるのかということを学んで行ったのです。このヘロデのエピソードは、12弟子の派遣という大きな文脈の中で描かれているのです。なぜ、そういう構成になっているのでしょうか。ヘロデは、この人は誰だ、ということを自問自答しているのです。従って、ルカは、主イエスは誰かという課題を強調するために、ヘロデの戸惑いのエピソードをここで挿入しているのです。

 ガリラヤの人々は主イエスに関して、様々なことを言っていたのです。ある人は、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もおり、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいて、これらの噂がヘロデの耳に入ったのです。さて、ここで7節では、「ところで、領主ヘロデは、」と書かれていますが、この人はヘロデ大王の息子であり「ヘロデ・アンティパス」という人です。ヘロデ大王がなくなった時に、ヘロデ大王の領地を分割して、4分の1を継承したのです。4分の1を継承したので、領主と書かれているのです。王よりも格が下なのです。そして、ガリラヤ湖の西のガリラヤ地方と、飛び地になりますがヨルダン川の東のペレア地方を統治していた領主だったのです。そのヘロデが自分の領地の中で、奇跡を行う者がいるという噂を聞いたのです。主イエスと12人の弟子たちの活動を聞いたのです。ということは、ヘロデの宮廷内でも、この噂が広がっていたということです。その噂を聞いて、ヘロデはひどく当惑していたのです。当惑というのは、非常に戸惑っていたということです。戸惑ったヘロデは何と言っていたのでしょうか?9節には、「しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。」と書かれています。ヘロデのエピソードが挿入されている最大の理由は、9節の「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」という言葉にあるのです。主イエスは、神が人となられた救い主であるというのが、真実、正解なのですが、この段階では、弟子たちもその理解に到達していないのです。そして、ヘロデは「いったい、何者だろう。」と自問自答したのです。

 ヘロデは、自分がヨハネの首をはねたと思っているので、戸惑っているのです。ヘロデは、自分の兄弟から妻を奪い、自分の妻にしました。洗礼者ヨハネは領主ヘロデにそのことを批判しました。そして、ヘロデの誕生日に、ヘロデは人を遣わし、牢の中でヨハネの首をはねさせたのです。従って、ヘロデには罪責感と恐れが戸惑いと共にあったのです。そのことは、マルコによる福音書6章16節を見ると、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。」と書いてあります。両方の福音書の記述を比較すると、ヘロデの思考が発展して行っていることが読み取れるかと思います。どのようにヘロデは思考を進めたのかと言いますと、まず、主イエスについての噂を聞きました。その後、ヘロデは主イエスが誰なのかと思案したのです。しばらく思案した結果、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と結論づけたのです。そして、ヘロデはどうしたいと思ったのでしょうか。9節の後半には、「そして、イエスに会ってみたいと思った。」と書かれています。ヘロデは、いつかチャンスがあれば、主イエスに会ってみたいと思ったのです。ヘロデがなぜ会ってみたいと思ったのかは、後で、もう一度考えてみたいと思います。

 神様に祈る時を

 ここまでが挿入句として、12弟子の派遣と12弟子の帰還の間に、入れられていたのです。それでは、12弟子たちは、どうなったのでしょうか?10節を見ますと、「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」と記されています。ここで注目したいと思うのは、それまで「12人」と記されていた弟子たちが、ここでは「使徒たちは」と記されているのです。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味です。それ故、ここで「使徒たち」と記されているのは、主イエスによって力と権威を与えられて、主イエスの代理人として、立派にその務めを果たしたという意味が込められているのです。ルカがここで「使徒たち」という言葉を使っているのは、後に使徒たちの働きの時代に入った時に、使徒たちの奉仕にどういう意味があるのかということをここで予告していると思います。

 そして、帰ってきた使徒たちは大喜びで、主イエスに宣教旅行の次第を報告したのです。使徒たちの喜びと興奮が目に浮かぶようです。派遣された者が帰ってきて、自分を派遣した権威に対して、働きの報告をするというのは、使徒言行録に出てくる、世界宣教の基本原則でもあるのです。さて、報告を行った弟子たちは、とても高揚した気持ちの状態であったと思います。主イエスはその彼らを連れて、「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」と10節後半にあります。「自分たちだけで、退いた」という言葉がここでは大切です。自分たちだけとは、群衆から離れてということです。主イエスはここで、ご自分と12人の弟子たちだけの時を持とうとされたのです。このとき主イエスと弟子たちはカファルナウムにいると思いますが、そこから「ベトサイダという町に」退かれたのです。ガリラヤ湖の北岸のカファルナウムから東の方に向かうと、ヨルダン川に来ます。そのヨルダン川を越えると、ベトサイダという町があります。そのベトサイダという町に、主イエスと弟子たちは退かれたわけですが、その町中にではなくて、その近くの、人里離れた場所に退かれたのです。

 これはとても大事なことを示しています。弟子たちは、主イエスから、悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられて村々に遣わされました。そしてそこで、福音を告げ知らせ、病気を癒したのです。彼ら自身にとっても驚くべきことに、彼らによって悪霊が出て行ったり、病気が癒されたりしたのです。そういうすばらしい体験を彼らはしました。主イエスのもとに帰って来た彼らは口々に、自分を通してこんなことが起りました、あんな奇跡をすることができました、と語ったことでしょう。弟子たちは今、そういう興奮状態にあったのです。主イエスはその弟子たちを連れて、人々から離れ、ご自分と弟子たちだけの静かな時を持とうとされたのです。それは弟子たちが興奮の中で大切なことを見失ってしまわないためです。それは、彼らが行なった使徒としての働きの全てが、主イエスが授けた力と権能とによって、実現したのだということをしっかり見つめ、神様に感謝し、神様と自分の関係をしっかりと見つめるということです。それが、「ベトサイダという町に退かれた。」ということです。私たちは、自分にとっての「ベトサイダという町」はどこか、ということを考えることが求められていると思います。さて、密かに退いたはずなのに、何が起きたのでしょうか。11節には、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」と書かれています。群衆は、主イエスと弟子たちが退かれたのを見逃さなかったのです。そして、主イエスと弟子たちの後を追ったのです。この記述から、ガリラヤ伝道に於ける主イエスの人気は絶頂期にあったことが分かります。この事態に、主イエスはどうされたのでしょう。「イエスはこの人々を迎え、」と記されています。主イエスは、ついてきた群衆を喜んで迎えたのです。ルカは、この抑えられた表現の中で、主イエスが、愛に富んだお方であること、憐れみに富んだお方であることを書き記そうとしているのです。今は、静かに退いているのだから、ついて来ないように言うのではなくて、苦痛を抱えている人々を喜んで迎えたのです。そして、主イエスがなさった奉仕は、「神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた。」のです。どんな人でも、主イエスの元に行くならば、主イエスは喜んで迎えて下さるのです。私たちは、1歩、2歩と、主イエスに近づくように、招かれているのです。

弟子たちを用いて行なわれた奇跡

 さて、そうこうしているうちに日が傾いてきました。12節には、『日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」』と書かれています。12人の弟子たちが主イエスのもとに来て、提案したのです。「群衆を解散させてください。」。なぜかと言いますと、ここは寂しいところなのです。まだ、日がある、明るいうちに移動するならば、彼らは、周りの村や里へ行くことができ、そこで、宿を見つけ、食事をすることができるでしょう。彼らはこのまま夜を越すことはできない、宿を見つけ、食事をする必要があるのです。この弟子たちの提案は、人間的に見るならば、当然のことを提案していると見ることができます。

 すると、思いがけない答えが帰って来たのです。このことは、弟子たちの訓練という文脈の中で理解する必要があります。13〜15節には、『しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。』と書き記されています。主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言うのです。弟子たちには、とても不可能な要求です。ルカは、「男が五千人ほどいたからである。」ということを伝えています。「男が五千人ほどいたからである。」というのが、どういう意味であるかというと、5千家族位がいたということです。男が、家長で、配偶者や子どもたちもいたと思います。そうしますと、実際の群衆の数は、5千人の4〜5倍はいたのではないでしょうか。そう考えますと、満席の国立競技場の観衆くらいの数の群衆がいたことになるかと思います。満席の国立競技場の観衆くらいの数の群衆のお腹を満たせというのが、主イエスの要求なのです。これは不可能です。ですから、弟子たちは答えるのです。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」つまり、これだけしかない、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われても、たったこれだけしかないのですと、弟子たちは答えているのです。ここで、弟子たちは自分たちの無力を認識させられているのです。人が自分の無力を認識した時に、人が自分の力では到底解決することのできない試練や問題に直面した時に、どうしたら良いのか。それは、神様に信頼するしかない、主イエスに信頼するしかない、のだということです。ここでも、主イエスに信頼するしかない、という状況の中で、弟子たちは、今、訓練を受けているのです。

 似たような状況が、旧約聖書の中にも出てくるのです。列王記 下、4章42〜44節です。『一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。』と書かれています。この聖書の箇所では、エリシャという預言者が、主イエスの型となっています。エリシャがここで体験する奇跡は、主イエスによって弟子たちが体験する奇跡にも匹敵するものです。主イエスは、12人の弟子たちに自らの限界を認識させ、次に、神様に信頼することを教えたのです。

 ここから、主イエスの方法による食事の配給が始まります。本日の聖書の箇所の14節には、『イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。』とあります。約50人のグループを作って、座らせたのです。弟子たちは、主イエスの命令に従ったのです。そして、非常に秩序ある方法で奇跡が行われるのです。16〜17節には、『すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。』とあります。奇跡が起きたプロセスは、どのような順序になっているのでしょうか。最初が、『すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、』とあります。主イエスの手の中に、僅かばかりの食物が握られたのです。次に、主イエスは、『天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、』とあります。主イエスは神様の御名を讃えているのです。パンとぶどう酒を与えて下さる神様の御名を讃えるのは、ユダヤ人の習慣です。そして、3番目に、『裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。』とあります。主イエスからパンを受け取った弟子たちは、それを群衆に与えたのです。そして、『すべての人が食べて満腹した。』のです。それで、きっちり終わりではなかったのです。『そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。』とあります。これは、重要な記述となります。ここでの『籠』という言葉ですが、ギリシア語で『コフィナス』という言葉となります。これは、当時、ユダヤ人たちが、不浄ではない、清浄とされた食べられる食物を持ち運ぶために使っていた手持ちの小さな籠なのです。ですから、そこに入っている食物の量というのは、1人分もしくは2人分程度の量であったのです。その小さな籠12個にいっぱいあったというのです。

 この5千人の給食の奇跡の中で、奉仕をしたのは12人の弟子たちです。ここで、奉仕の原則が見えてきます。奉仕した12人の弟子たちはまだ、食べていないのです。奉仕して、みんなに食事を配って、もう、食べるものはなくなったかと思ったら、12籠残っていたというのです。奉仕した12人にもパンが与えられたのです。奉仕の原則は、主イエスから日々受けることです。そして、それを人々に配ることです。そして、結果として、自分もそれと同じ、あるいは、それ以上の祝福を受けるということです。ここでは、まず、神様から恵みを受けるということが大事なポイントです。受けたものを人々に伝えるということ、その結果、自分もまた祝福されるということです。これが、奉仕の原則です。日々、神様のみ言葉から、神様の励ましとメッセージを受け取っていなければ、必要な奉仕を行うことができないということを覚えておきたいと思います。

主イエスを求める理由

 本日の聖書の箇所の全体を振り返ってみたいと思います。最初に、ヘロデは、いつかチャンスがあれば、主イエスに会ってみたいと思ったということをお話しました。しかし、それは直ぐには実現しなかったのです。もし、領主ヘロデは、主イエスを信じたいという求道心があれば、すぐにでも主イエスの元に来たはずです。あるいは、使いを送って主イエスを宮廷に招いたはずです。しかし、ヘロデは会いたいとは思ったけれども、直ぐには実現しなかったのです。なぜでしょうか。それは、求め方が間違っていたからです。ルカによる福音書の13章の31〜32節に、ヘロデは再び登場します。『ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」』と、このように記されています。ここで、ヘロデがどのような文脈で出てくるのかと言いますと、ヘロデは洗礼者ヨハネを殺したのと同じように、主イエスを殺そうとしているという文脈で登場するのです。そのヘロデのことを主イエスはどのように評価されたかと言いますと、主イエスはヘロデのことを、名前を呼ばずに『あの狐』と言われたのです。すなわち、ヘロデという男がいかに狡猾な罪人であるかを、主イエスは見抜いておられたということです。そして、ヘロデがいかに妨害しようとしても、主イエスは父なる神様が用意された道を歩み、そして、3日目に働きを完了すると言っているのです。それは、十字架での死と復活の予言をここで語っておられるのです。

 そして、もう一箇所、ヘロデが登場します。それが、ルカによる福音書23章6〜12節です。ここでは、ピラトが主イエスをヘロデのもとに送っています。エルサレムで主イエスが逮捕されて、ポンティオ・ピラトの前で裁判にかけられるのですが、ピラトは主イエスを裁きたくないのです。それで、ガリラヤからヘロデがエルサレムに来ているということを聞きました。当時の罪の裁き方というのは、罪人の出身地の支配者が裁いても良いことになっていました。そのため、主イエスをヘロデの元に送ったのです。しかし、このときはヘロデがいろいろと尋問しましたが、主イエスは何もお答えにならなかったのです。ヘロデは、主イエスとこのときには、顔と顔を突き合わせて会ってはいるのですが、心の通うような言葉は一切ないという会い方しかできなかったのです。なぜなのかと言いますと、ヘロデという男は、好奇心と敵対心の故に、主イエスと会ってみたいと思ったからなのです。信仰が会いたいという動機ではなかったのです。ヘロデはエルサレムで主イエスと会っていたのですが、主イエスの本質には触れることができなかったのです。主イエスは、罪人が憐れみを請うて、近づいてきたことを拒否したことは一度もありません。今日の聖書の箇所で、主イエスは群衆を喜んで迎えたということをお話しました。しかし、どんなに地位や権力のある人であっても、傲慢な思いで主イエスに近づくならば、主イエスはことごとく拒否されたのです。大切なことは、信仰と真実が動機になっていなければ、主イエスの本質には近づくことはできないということです。主イエスの本質が分からないから、主イエスに近づけないというのは正しくありません。主イエスを信頼して、近づけば、近づくほど、主イエスが素晴らしいお方であるかが分かってくるのです。領主ヘロデから学ぶ教訓は何かと言いますと、私たちには主イエスに近づく動機が問われているということです。

群衆を歓迎する主イエス

 本日の聖書の箇所で、ルカは主イエスを愛に溢れた方、恵みに溢れた方、必要を抱えた人たちの直ぐ側にいる救い主として描いています。必要を抱えている人は、直ぐ側にいる主イエスに助けを求めれば、良いのだよと、ルカは主イエスを描いているのです。このことは、ヘブライ人への手紙4章15〜16節で、確認することができます。『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。』とこのように書かれています。主イエスに近づきたいと思います。大胆に恵みの座に近づきたいと思います。なぜなら、主イエスは私たちの弱さを理解し、思いやって下さるお方だから。これが、主イエスの真実な姿であるからなのです。そして、ヘブライ人への手紙13章8節には、『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。』と書かれています。主イエスは、公生涯の間、群衆を憐れみ、喜んで歓迎された主イエスの本質は、きのうも今日も、また永遠に変わることがないのです。主イエスというお方が、復活し、今も生きておられ、その本質は今も変わることはないのです。

正しい信仰に導かれる主イエス

 次に、奉仕者に与えられる祝福について、考えてみたいと思います。どのような祝福が与えられるのでしょうか。主イエスと共に働くのであれば、自分ではとてもできないことが可能になるということです。12人の弟子たちは、このことを本当に体験したのです。12人の弟子たちは、5千人の給食という奇跡を通して、用いて頂けるということを体験したのです。自分の力で、頑張ってやり抜こうとすれば、疲れて、挫折してしまいます。しかし、主イエスと共に働くならば、思いもかけないことが可能になるのです。主イエスと共に、働かせて頂いている、主イエスが先頭に立って、教会の働きを導いておられる。それ故、思いもかけないことが、可能になっている。このことを、弟子たちと共に、私たちも体験したいと思います。

 さらに、12人の弟子たちにもパンが与えられている点に注目したいと思います。余ったパンの屑を集めると、12籠もあったのです。12人の弟子たちは、神様の奇跡に参加したのです。本日の聖書の箇所に記されているパンと魚の奇跡は、4つの全ての福音書に記されている唯一の奇跡です。このことから、弟子たちがどれほどの衝撃を感じたのかが分かります。この奇跡の偉大さに衝撃を感じ、その結果、弟子たちは主イエスとは誰かという最も重要な質問に対する答えについて、考え直すことを迫られたのです。主イエスを信じて、従って来て、嵐を静めた主イエスにも驚いたのですが、五つのパンと二匹の魚で、5千人の給食を行った主イエスとはどういうお方なのだろうか。主イエスは誰かという質問について、考え直すことを迫られて、12人の弟子たちは正しい信仰へと導かれて行くのです。この5千人の給食の奇跡は、今日の聖書の箇所の後に出てくるペトロの信仰告白への道備えといなっているのです。12人の弟子たちも神様の祝福を受け、そして、正しい信仰へと導かれて行くのです。私たちは、主イエスは誰かという質問に何と答えますでしょうか?

 主イエスは、神様の子が人となられ、私たちの罪のために、十字架で亡くなられ、墓に葬られ、3日目に復活され、今も生きておられる主であり、やがて、戻って来られる救い主であると思います。

 私たちは、この主イエスをまことの救い主であると、告白してゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。