■アメリカで見る「日本映画」
おはようございます。街の明かりは華やかなクリスマスのイルミネーションに飾られて、何かしら浮き浮きとした空気感の中で、日常が過ぎて行っているように思います。この華やかなイルミネーションに輝くクリスマス・シーズンに神様の視線はどこに集中しているのでしょうか。ここで、前回に続き、私が神奈川県の川崎市におりましたときに通った教会の牧師であり、青山学院大学の名誉教授である関田寛雄先生がアメリカに留学したときの思い出を綴った「アメリカ思い出の記」から『アメリカで見る「日本映画」』と題された記事を紹介したいと思います。
『アメリカで見る「日本映画」』 関田寛雄 1989年3月12日 川崎戸出伝道所週報より
クリスマスも近づいた頃ボストンの新聞に、「The Naked Island (裸の島)」という日本映画の広告が出た。映画好きの私は卒業論文の準備も放り出してかけつけた。それは新藤兼人が監督で、殿山泰司と乙羽信子が演ずる自黒の映画で、フランスやイタリヤでは大変なロングランになったもののニューヨークでは、「さっぱり」入りがないとの評判であった。
日本の情感に飢えていた私はなつかしい瀬戸内海の一小島、山頂までびっしり藷畑になっている小島をバックに、「耕して、耕して天に至る」という字幕を見た途端、涙が吹き出てきた。戦前戦中の日本の貧しさ、特に中学二年の時、病を得て一年休学し、身を寄せた熊本の田舎の貧しい段々畑を思い出した。一九六〇年代から経済の成長は速度を増したとはいえ、この字幕の言葉は敗戦後の四つの島にひしめく、日本の貧しさの全てを語っていた。
藷畑に水を運ぶため夫婦は天秤棒で水桶を島の頂きまでかつぎ上げるのである。その水は対岸の本州から舟で運んでくる。画面はただ汗びっしょりの、「夫婦のはげしい息づかいと、水のはねる音」だけが三〇分近く続くのみである。乙羽がつまずき、水桶はひっくり返った。殿山は力まかせに乙羽のほほをなぐりつけ彼女は倒れる。しかし、なお水の運びが黙々と続く。私は、「貧しい小作農の夫婦」の悲しみが伝わって来て涙が止まらない。
所がである。私の前に並んで座って見ていた米国婦人たちがひそひそ話を始めた。「何なの、この映画は」、「何も言わないわね」、「ばかばかしい(リデイキユラス)。もう出ましょうか」など。その時私はつくづく思った。「富める人々の芸術と貧しい人々の芸術はちがうのだ」と。この重い沈黙とはげしい息づかいから、この人々は何も感じられないのである。
収穫した藷を地主に売って平身低頭して、「僅かの金」をもらい、二人の子供が港の安食堂でカレーライスを喰べるのをニコニコ見ている夫婦。やがて弟が急病で死に、山の端に同級生たちと共に野辺の送りをする。再び藷の芽が出る頃、水を運び上げた乙羽は、号泣しながら、片っぱしから藷の芽をちぎり大地をかきむしって泣き崩れる。殿山はその姿をじつとみつめ、やがて柄杓の水をそそぎ続ける。チョロチョロと落ちる水音だけが、「念仏」のように響く中、涙ながらに乙羽も起き上って水をそそぎ始めるのである。
私はこの映画を見た時、日本への、「強い愛」を感じた。そして、日本へ帰ろう、あの貧しい日本でこそ伝道しようと決意したのであった。それはボストン大学での博士課程(三年間)奨学金の約束が与えられた直後のことであった。
水を運び上げるのが黙々と続く、「貧しい小作農の夫婦」の悲しみに共感がなければ、映画「The Naked Island (裸の島)」はばかげた映画となってしまうように、本日の聖書の箇所のイエスに始まり、アダムに続く、ただただカタカナの名前が、延々と連なる主イエスの系図も、神様の眼差しの向かう先に対する共感がなければ、何の意味もなくなってしまうと思います。本日は、福音記者ルカはなぜマタイによる福音書とは異なる主イエスの系図を書き記したのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を皆さんと共に学んでゆきたいと思います。
■イエス・キリストの系図
さて、今回は、前回取り上げましたマタイによる福音書に書き記されているイエス・キリストの系図に続いて、ルカによる福音書の中に書かれている主イエスの系図について皆さんと共に読んでゆきたいと思います。ここで、前回の復習を簡単にしたいと思いますが、ユダヤの人びとにとって、系図はとても大切なものであったのです。それでは、ユダヤの人びとにとって、現代に於いて、ユダヤ人は世界中のどこに住んでいても、イスラエルに帰還したいと申し出たら、無条件で帰還することができます。しかし、そのときには、自分がユダヤ人であるということを証明する必要があるのです。ところが、現代のユダヤ人には、もう系図はないのです。ユダヤ人の系図は、紀元70年のエルサレム陥落の際に、失われているのです。それでは、どうやってユダヤ人であるということを証明するのかと言いますと、殆どの場合、自分が住んでいるシナゴーグと呼ばれる会堂にいるラビと呼ばれる聖職者に推薦状を書いてもらうのです。「このAさんは、熱心にシナゴーグに来て、礼拝をしていたユダヤ人です。」というような内容の推薦状をラビに書いてもらって、ユダヤ人だと認めてもらっているのです。
しかし、主イエスが生きておられた時代には、まだ系図が残っており、自分が何者であるかを証明するためには、系図はとても重要であったのです。さらに、旧約聖書の時代から、新約聖書の時代にかけては、系図は土地の所有権の証明になるのです。部族毎、氏族毎、家族毎に応じて土地が分割されたのです。従って、系図を持っているというのは、土地の権利書を持っているようなものだったのです。それだけではないのです。イスラエルの12部族の中で、祭司になるのはレビ族であったのですが、祭司職の証明のために、系図が必要であったのです。アロンの家系であることが、祭司職の条件であったのです。旧約聖書の中に、歴代誌という書物があります。この歴代誌は上と下に分かれていますが、元は1つの書物であったのです。この歴代誌に系図が出てきます。旧約聖書ではそれまでにも様々な系図が出てきますが、歴代誌の系図はそれまでものものと視点が異なっているのです。歴代誌の系図はバビロン捕囚から帰還して以降、まとめられた系図なのです。これは、祭司職が正しく継承されているかを証明するという視点があるのです。
さらに、もう1つの視点があるのです。それは王位の証明という視点なのです。王になる家系かどうかということです。モーセの律法では、イスラエルの王は、イスラエル人でなければいけないとなっていたのです。申命記17章15節、「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。」と、このように書かれています。それが、ダビデ王が出てからは、ダビデの家系が正統の王となるのです。これは、サムエル記下7章16節に、「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と書かれている通りなのです。イスラエルの王は、イスラエル人であること、ユダ族であること、そして、ダビデ王以降は、ダビデの家系であることを証明しないと、正統な王とは認められないのでした。
新約聖書にはドキッとするようなことが書かれています。主イエスがお生まれになった時代、ユダヤを支配していた王の名前は、ヘロデ大王と言いました。ヘロデ大王はイスラエル人ではありませんでした。エドム人であったのです。エドム人というのは、イサクの子どもで、ヤコブのお兄さんであるエサウの子孫なのです。ということは、ヘロデ大王はローマ帝国から権利を認めてもらって、王としてユダヤを治めていますが、聖書的にはユダヤの王となる正統性がないのです。そのため、マタイによる福音書の2章の2節で、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と書かれています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった」、しかし、ヘロデ大王はエドム人なのです。正統性がないのです。その言葉を聞いて、ヘロデ大王はどうしたのか、2章3節です。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」、このように書かれています。ヘロデ王は動揺していることが分かります。ヘロデ王には正統性がない、しかし、ユダヤ人の王としてお生まれになった方が到来した。これは、ヘロデ王にとっては、恐るべきライバルの登場の宣告であったのです。このように、系図は王位の証明にもなるのです。そして、最後に系図は、メシア性の証明にもなるのです。メシアはアブラハムの子孫、ダビデの子孫でなければならないのです。マタイによる福音書の冒頭のイエス・キリストの系図は、そのことを証明しているのです。福音記者マタイは、アブラハム以降、主イエスまで繋がる系図を示して、そのことを証明しているのです。このように系図は非常に重要であったのです。マタイによる福音書ほどは有名ではありませんが、福音記者ルカも主イエスの系図を示して、系図が重要であることを示しているのです。
このような背景を踏まえて、本日の聖書の箇所の3章23節を見てみたいと思います。「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、」とこのように書かれていて、それから人の名前が次々と続いて、最後にアダムまで続くのです。「イエスが」と訳されていますが、原文ではイエスに続いて「アウトス」という言葉が続いていて、これを直訳すると「イエスご自身が」と、主イエスの人格に注意を向けさせる代名詞が加わっているのです。さらに、「宣教を始められたときは」とありますが、原文では目的語の「宣教を」に対応する言葉がないのです。従って、直訳では、「イエスご自身が始められたとき」となるのです。即ち、目的語がないことによって、主イエスのメシアとしての働きの全てを包含した文章となっているのです。ルカは、単に主イエスが教えを語り始めたとも、宣教を始められたとも言っているのではないのです。ルカは、主イエスはそのためにこの世に来られた、その働きをこのときから始められたと言っているのです。それが、およそ30歳で、そのときからメシアとしての活動を始められたと言っているのです。福音記者ルカは、「およそ三十歳であった。」と言っています。主イエスの年齢に幅を持たせています。30歳という年齢に注目したいと思います。旧約聖書では、祭司が聖所で奉仕を始めることができる年齢は30歳とされています。従って、ユダヤ人にとって、30歳というのは重要な意味を持っていたと思います。そして、「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、」と、ルカの福音書での主イエスの系図が始まって行くのです。
■アダムに至る系図
ルカによる福音書の主イエスの系図は、主イエスの母マリアの系図なのです。ルカによる福音書の1章〜2章ではヨセフよりはマリアが主役でした。このため、本日の聖書の箇所の主イエスの系図でも、マリアの家系をたどっているのです。ユダヤ人の系図では、通常、女性の名前は出てこないのです。マタイの福音書では、例外的に4人の女性の名前が登場してきます。それは、この4人の女性が非常に重要な役割を果たしていることから、その名前が挙げられているのです。それでも、誰々と結婚した、あるいは、誰々の妻であった、というような形で挙げられています。しかし、通常は系図をたどるときには、女性の名前は出さないのです。そのため、ルカもマリアという名前は出していないのです。その代わりに、夫ヨセフの名前を出しているのです。そして、ヨセフの義理の父エリ、マリアの父の名前を紹介することによって、そのラインを遡って、アダムまでたどっているのです。
ルカによる福音書は異邦人のために書かれた福音書です。福音記者ルカは、主イエスが全人類の救い主であることを示そうとしているのです。そのため、本日の聖書の箇所の系図はイエスから始まり、マリアの家系をたどり、アブラハムを経て、最期はアダムまでたどっているのです。マタイによる福音書では、アブラハムから始まっています。マタイはユダヤ人を対象に書いているからです。
さて、「イエスはヨセフの子と思われていた。」とあります。ルカによる福音書の降誕物語を読んできた読者はすでにヨセフは主イエスの実の父親ではなく、義理の父親であることを知っています。マリアは処女降誕、聖霊によって身籠った、そして、主イエスが誕生したということを伝えているのです。そして、ヨセフの義理の父エリ、マリアの父の名前を紹介することによって、主イエスは肉体的には、マリアの子であると伝えているのです。そして、主イエスはマリアの子であり、ダビデの子孫であり、アブラハムの子孫であるということが、ルカによる福音書が示しているところです。そして、24節から38節まで、名前がずらっと書き連ねられています。
ここで、マタイによる福音書とルカによる福音書の主イエス・キリストの系図を比較してみたいと思います。マタイによる福音書では、主イエスの系図を3つに区分し、記憶しやすいようにしています。マタイは全ての名前を書いているわけではなくて、3つに区分して、記憶しやすいように編集をしているのです。3つの区分の区切りが2つあります。1つがダビデという人物です。ダビデが1と2の区切りになっています。そして、2つ目の区切りがバビロン捕囚です。今度は、出来事が区切りになっています。そして、1つの区切りに14人が出てきます。14人の3区分であるから、14かける3で、42人になるのですが、ところが登場する人物を数えると、41人です。なぜ、1人少ないのかと言うと、ダビデの名前が第1区分の最後と、第2区分の最初に2回出てくるからなのです。このため、42人ではなくて、41になっています。系図の中に、省略がありますが、これは旧約聖書では一般的なことなのです。このように、マタイは系図を3区分に分けて、覚えやすいように編集しているのです。
それでは、ルカはどうなのでしょうか。ルカの福音書の主イエスの系図では、イエスからアダムまで、77人が登場します。ルカはマタイのようには明記していませんが、7人☓11区分という編集意図があります。そして、上であるアダムから順に見てゆくと、区分の終わりか初めに重要な人物が登場しています。例えば、アブラハムは3区分目の最後に登場しています。ダビデは5区分目の最後に登場しています。従って、ルカも読者が理解しやすいように、編集意図を持って書き記していることが分かります。
■最初のアダム
それでは、福音記者ルカの編集意図とは何なのでしょうか?マタイによる福音書の主イエスの系図と異なり、ルカによる福音書の主イエスの系図では、主イエスからアダムまで遡っているということを先程お話ししました。このことは、ルカによる福音書の主イエスの系図は、主イエス・キリストがアダムから始まった全人類の救い主であることを示しています。そして、ルカによる主イエスの系図を逆に遡って見ると、アダムが初めであり、主イエスが最後になっています。このように見る時に、このアダムは最初のアダムと言います。この最初のアダムは不従順なアダムです。最後に出てくる主イエスは、聖書では最後のアダムと言います。主イエスは従順なアダムです。そして、キリスト者は、最初のアダム、不従順なアダムから分離し、最後のアダム、従順なアダムである主イエスにつながって、救いを得たのです。最初のアダムにつながっているときには、私たちは原罪を宿し、神様の裁きを受ける、滅びるのが当然の存在であったのです。主イエス・キリストを救い主として信じることによって、最後のアダムにつながり、キリストにあって、罪の赦しを得たのです。永遠の命を得たのです。信仰と恵みによって救いを得たのです。延々とカタカナの名前が書き連ねられているルカによる福音書の主イエスの系図は、私たちに救いをもたらす神様のご計画が表されていると見ることもできるのです。神様の目は、神様の救いの歴史を見ていると共に、私たち一人ひとりの救いを見ているのです。即ち、ルカによる福音書の主イエスの系図は、私たちに救いをもたらす神様のご計画であり、神様の救いの歴史であると同時に、私たち一人ひとりの物語でもあるのです。次に、そのことを考えて見たいと思います。
■ナルニア国物語
イギリスのクリスチャン作家であるC.S.ルイスの作品に『ナルニア国ものがたり』(ナルニアこくものがたり)という作品があります。とても有名な作品で、世界3大ファンタジーに数えられているほどです。全7作からなるこの作品の第1作に『ライオンと魔女』という作品があります。C.S.ルイスはこの作品の中で、見事にキリスト教の世界観を表現しています。
時代は1940年、第二次世界大戦中のイギリスです。ペベンシー家の男の子2人、女の子2人の4人兄弟が、ロンドン大空襲を避けるために田舎の学者の屋敷に預けられます。大きな屋敷の中には、たくさんの部屋があります。その中の一つに大きな衣装箪笥のある部屋がありました。ところがその衣装箪笥の奥は、別の部屋に通じていたのです。かくれんぼでこの衣装箪笥に飛び込んだルーシィは、衣装箪笥の奥から冬に閉じ込められたナルニアに迷い込み、向こう側の世界に行ってしまうのです。
その向こう側の世界が、この物語の舞台であるナルニア国であったのです。ところが、その地に立つと一面雪景色なのです。実は、この国は1年中冬なのです。春が決してやって来ない、そのような状態がもう100年も続いているのです。しかも、冬なのにクリスマスが来ないのです。原因はこの国を支配している魔女のせいなのでした。この魔女は白い女王と名乗る支配者で、この魔女に逆らう者は片っ端から石の像に変えられてしまうのです。しかし、そのような魔女にも気がかりでならないことがあったのです。それは、いつも日にか、「アダムのむすこ」と「イブのむすめ」、つまり「人間の子供たち」がやってきて、ケア・パラベルというお城の王座についたときに、白い魔女の最期・冬の終焉となるという予言があったのです。それで、人間の子どもが来たら、必ず知らせるようにとナルニアの住人たちにきつく申し渡していたのです。そんな事情をナルニアで知らされたルーシィは、一旦、元の世界に戻ってきます。随分、長い間、経っているはずなのですが、戻ってみると、数秒も経っていないのです。ルーシィは、見てきたことをお兄さん、お姉さんたちに一生懸命話しをします。ところが誰も信じてくれないのです。すぐ上の兄であるエドマンドという少年は、特にひねくれた嫌な少年でした。ルーシィを散々からかい、バカにします。ある日のこと、またしてもかくれんぼが始まるのですが、エドマンドは改めてルーシィをバカにするために、あの大きな衣装箪笥の中に入るのです。するとナルニア国に立っているではありませんか。ルーシィの言っていたことは本当のことだったのかと、驚く間もなく、エドマンドは白い女王とバッタリ出くわしてしまうのです。白い女王はとても親切にエドマンドに声をかけて、好物のターキッシュディライトという名前のプリンをくれるのです。そのプリンは、一口食べると、もっと欲しくなります。そして、そのプリンをもらうためなら、どんな悪いことでもやっても良いと思わせる魔法がかけてあるプリンなのです。白い魔女は言います。「もし、私の言うことを聞くなら、このプリンをもっと食べさせてあげる。そればかりか、あなたをこのナルニアの王様にしてあげる。そのために、あなたの兄弟たちをおびき寄せなさい」。こうして、エドマンドを裏切らせることに成功するのです。そうして、この魔女は人間の子どもたちを殺しさえすれば、王座に座らせる心配をしなくても済むと、ほくそ笑むのです。
ところが、ここにナルニアの冬を終わらせる存在が登場するのです。それが、アスランという名前のライオンなのです。このライオンはあくまでも善人でありながら、同時に凄まじい恐ろしさを秘めた人のようでした。あらゆるものを元の姿に戻す力を備えているライオンなのです。あの白い魔女ですら、このアスランというライオンの前では、立っているだけで精一杯なのです。呼吸するだけでも、苦しくなるほどの存在なのです。このアスランの活躍で、一時は白い魔女の虜になり、兄弟たちを売り渡そうとしていたエドマンドも取り戻されました。エドマンドはアスランと兄弟たちに心から謝ります。しかし、白い魔女はアスランに言うのです。「このナルニアの国の掟では、裏切り者は石のテーブルの上で、私によって殺されることになっている。エドマンドは自分の兄や姉妹たちを裏切り、アスラン、お前にも嘘をついて、裏切っていた。この掟をもし曲げるなら、その瞬間にこのナルニアの国全体が滅びてしまうということを忘れたのか」。アスランは、魔女と話し合いを持ちます。そして、残りの兄弟たちに言うのです。「話し合いがついた。あなたたちの兄弟の血をよこせというのをやめてくれた」。それを聞いた魔女は喜びでいっぱいなのです。しかし、アスランは何とも言えない、寂しく、厳しい表情で大きく吠え続けるのでした。一体、どんな話し合いが行われたのでしょうか。
アスランはエドマンドを救うため、自分が身代わりになって処刑されることを魔女に約束していたのでした。いよいよ殺されるために、石の処刑場に連れて行かれるとき、ルーシーとスーザンはアスランに言うのです。私たちも一緒に行かせてください。すると、アスランは暫く考えて言うのです。「今夜は、お供がある方が嬉しいよ」。アスランは今までになくノロノロとした歩みで来て、こう言うのです。「悲しくて、寂しいのだよ。あなた方の手をたてがみの上に乗せておくれ。そうすれば、あなた方が私のすぐそばにいることがわかる。そうして行こう。」。隠れて見守るルーシィとスーザンの目の前で、魔女軍はアスランを捕らえ、侮辱します。最後に魔女はアスランを石舞台の上に括り付け、石のナイフでアスランに止めを刺し、勝利を確信して引きあげたのです。アスランのこの身代わりの死の故に、本来、死ななければならなかったエドマンドは助かります。しかも、その翌日、朝日に輝く、今までよりも、さらに大きく見えるアスランがたてがみをゆすりながら立っているのです。アスランは復活するのです。アスランはルーシィとスーザンに、魔女が知らなかった魔法、この世の始まりより前からの魔法には、裏切り者の身代わりに罪無き者が進んで犠牲となるとき、石舞台は砕け、死そのものもなかったことになると定められていたのだと告げる。やがて、アスランは石にされていた者たちを生き返らせ、4人の兄弟たちと一緒に、魔女の軍団を叩きのめして、勝利するのです。4人は王と王女になり、永遠に春になったナルニアの国を治めるという物語なのです。
さて、聖書の中のヨハネの黙示録5章5節には、次のように書いてあります。『すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」』。さらに、9〜10節には次のように書かれています。『そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」』
ここでは、主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエス・キリストはユダ族のライオンと呼ばれているのです。アスランというのは、トルコ語でライオンという意味なのです。作者のC.S.ルイスは、別の本の中でこのように書いています。「私に手紙をくれる子どもたちは、みなアスランが誰だかすぐに分かるようですが、不思議なことに大人たちには全然分からないようです。」
エドマンドは、兄弟たちとアスランを裏切ったのにもかかわらず、悔い改め、アスランの死による贖いによって、救われたように、私たちもまた、最後のアダムである主イエスの十字架での贖いと復活を信じる信仰と恵みによって救いにあずかることを、今日の聖書の箇所の主イエスの系図を通して、神様は見つめておられるのです。
■最後のアダム
コリントの信徒の手紙一、15章21〜22節で、パウロは次のように語っています。『死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。』
最初の人間アダムの罪によって、人間は死に支配されるようになりました。それは、自然現象としての死のことではありません。見つめられているのは、人間にとって死が、大きな恐れ、不安、苦しみを伴うものとなっているという事実です。死がそのような苦しみとなっているのは、創世記第3章が語っている、アダムの罪の故なのです。アダムの罪とは、神様によって命を与えられ、神様の下で、神様に従って生きていた人間が、そのことを束縛と思うようになり、神様から自由になって、自分が主人になって生きようとしたということです。このアダムの罪が、人間の罪の根本であって、私たちは皆それを受け継いでいます。神様を主として従うことを拒んで、自分が主人になって生きようとしているのです。この罪の結果、私たちを造り、命を与えて下さった神様と私たちとの関係は損なわれ、疎遠になり、敵対的になってしまっています。つまり神様と決裂してしまっているのです。
しかし、ここにはそれと対になるように、「死者の復活も一人の人によって来る、キリストによって全て人が生かされることになる」と語られています。神様が遣わして下さった独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦され、罪によってもたらされる死の恐れと苦しみは取り除かれたのです。もちろん私たちにおいても、肉体の死はなお不安や悲しみや苦しみを伴うものです。しかし、神様との敵対関係は根本的に解消されたのですから、私たちは自分の死を、もはや神様の怒りや裁きとして恐れないでよいのです。そして神様はさらに、主イエスを死の支配から解放して復活させて下さったことによって、私たちにも、神様が与えて下さる新しい命に生きる希望を与えて下さったのです。主イエス・キリストの復活はこのように、私たちが死の恐れと苦しみから解放され、新しい命に生かされていく恵みの初穂となっているのです。私たちは、今年のクリスマス、この主イエスの系図に啓示されている最後のアダムである主イエス・キリストに繋がる恵みの内を歩んでゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。