小倉日明教会

『72人の派遣ー収穫の主に願う』

ルカによる福音書 10章 1~16節

2023年4月2日(日) 受難節第6主日礼拝

ルカによる福音書 10章 1~16節

『72人の派遣ー収穫の主に願う』

【奨励】 川辺 正直 役員

■将棋の神様

おはようございます。2016年に14才2ヶ月という史上最年少でプロ入りを果たした、将棋の天才棋士に藤井聡太さんという方がいます。先日の棋王戦で渡辺明二冠に3勝1敗で勝利し、「棋王」を獲得して、王将・竜王・王位・叡王・棋聖というタイトルと合わせて6冠を20歳8ヶ月で獲得して、羽生善治九段の最年少記録を29年ぶりに塗り替えて、史上2人目の6冠達成者となったということが、ニュースになっていました。その藤井聡太さんが名古屋で、約700人のファンを集めてトークショーをおこなったときのことです。このイベントでは「藤井聡太クイズ!」が行われ、ファンからの質問にクイズ形式で、藤井聡太さんが答えるという企画があったそうです。この企画の中で、ファンの方から「将棋の神様にお願いするなら、なに?」という質問がありました。藤井聡太さんと同じ師匠をもつ女流プロの中沢沙耶初段の方は「すべての対局を勝てますように」とお願いをしたのです。ところが藤井聡太さんは「せっかく神様がいるのなら一局、お手合わせをお願いしたいと思います」と誰もが予想できないことを答えたのです。会場からは「おー!」と驚きの声が湧き上がりました。この回答から、藤井聡太さんの勝ち負けを超えて、将棋の本質に迫りたいという思いが伝わって来るのではないでしょうか。

さて、本日の聖書の箇所では、主イエスは72人の弟子たちを派遣しています。本日の聖書の箇所の記事で語られている主イエスの教えを通して、主イエスの思いはどのようなものであったのかということを皆さんと共に学びたいと思います。

■ほかに七十二人を

本日の聖書の箇所の直近の文脈はどうなっておりましたでしょうか。9章51節〜19章10節という長い後半部分に於いて、ルカは、エルサレムへの旅という物語の中で、主イエスの奉仕を書き記しているのです。そして、前々回、取り上げました9章51〜56節では、サマリア人たちは、主イエスを拒否したことをお話しました。そして、前回の9章57〜62節では、ルカは、主イエスを拒否した人たちから、3人の弟子志願者に視点を移しておりました。拒否した人たちから、弟子志願者に視点が移動したのです。今日の聖書の箇所は、その延長線上にあって、繋がっているのです。本日の聖書の箇所では、3人の弟子志願者との対比で、72人の弟子たちの派遣が語られているのです。従って、福音記者ルカは非常に綿密に計画して、この福音書を書き記していることが分かります。

そして、最初の弟子たちの派遣は、主イエスのガリラヤ伝道の中での出来事ですが、9章1〜6節の12使徒の派遣でした。2番目のミッションは、本日の72人の弟子たちの派遣なのです。この72人の弟子たちの派遣は、ルカによる福音書だけの情報なのです。この記事を記したルカの意図は、宣教の広がりを記すことにあります。ルカは、ルカによる福音書を書きながら、使徒言行録のことを構想しているのです。使徒言行録では、弟子たちが世界宣教に出てゆく物語が描かれています。そこに繋げようとして、ルカは宣教の広がりを描いているのです。しかし、ルカが本日の箇所で強調しているのは、72人の弟子たちの宣教活動そのものではなく、主イエスの教えなのです。従って、ルカは72人の弟子たちがどの町に出かけていって、どのような活動を行ったのかということについては、あまり記載していないのです。ルカは主イエスの教えに焦点を合わせて書いているのです。

さて、本日の聖書の箇所の冒頭の10章1節には、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。この1節の主語は、「主」という言葉であり、ギリシア語では「キュリオス」という言葉が使われています。この言葉は、主イエスの権威が示されている言葉なのです。ですから、ルカは72人の派遣に際して、主イエスの権威を強調しているのです。主イエスはその権威に基づいて、72人の弟子たちを派遣されたのです。主イエスの弟子は使徒と名付けられた十二人の弟子たちだけではありませんでした。ほかにも名前の知られていない多くの弟子たちが主イエスに従っていたのです。「ほかに七十二人を任命」したとは、十二弟子のほかに主イエスに従っていた弟子たちの中から「七十二人」を任命したということです。なぜ「七十二人」なのだろうか、と思われるのではないでしょうか。ほかの写本では「七十二人」ではなく「七十人」となっているものもあります。「七十二人」と記されている写本も、「七十人」と記した写本も、どちらも信頼のできる写本で五分五分なのです。ここで、主イエスが使徒言行録で展開される世界宣教を予見していたとすると、「七十二人」あるいは「七十人」という数字には理由があると思います。それはなぜかと言いますと、旧約聖書の創世記10章を見ますと、ノアの子孫である70民族の名前が記されています。ギリシャ語訳旧約聖書では72民族です。そのためユダヤ教では伝統的に、この72ないし70という数字が、洪水後の世界のすべての国々、あるいは世界のすべての人々を象徴する数として用いられてきました。ですからルカにとって、「七十二人」ないし「七十人」の弟子たちの任命は、彼らをその数字が象徴する世界のすべての国々へ、すべての人々のところへ遣わすことを意味したのです。ルカは、この七十二人の任命において、主イエスの十字架と復活、その昇天の後に、聖霊が降って誕生した教会の働きを見つめているのです。ルカによる福音書の続編である使徒言行録において、復活した主イエス・キリストは天に上げられる前に使徒たちに次のように語っています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。「地の果てに至るまで」、世界のすべての国々で、すべての人々に、主イエス・キリストを証しすることが、教会に与えられている使命です。つまり宣べ伝えることが教会の使命なのです。2000年に亘って教会はこの使命を担い続けてきました。ですから私たちは、キリスト教会の世界宣教の最先端にいるわけですので、72人の弟子たちの任命と派遣を、他人事ではなく、自分自身のこととして読み進めていきたいと思います。

■主イエスのための準備

さて、1節を見ますと、主イエスはガリラヤからエルサレムに向かっているわけですが、その途中の町々、村々に弟子たちを派遣したということが分かります。派遣するときのパターンは2人1組です。2人1組の利点は何かと言いますと、一つには、安全が守られるということです。さらに、ユダヤ的な視点で重要なのは、証言の信頼性というのは、2人または3人の言葉によって決まるということです。旧約聖書では、裁判においてどんな犯罪も1人の証人によってではなく、2人ないし3人の証人の証言によって立証されなければならないと定められています(申命記19章15節)。つまり弟子たちの言葉が確実であることを示すために、主イエスは弟子たちをペアにして遣わしたのです。しかし、このことから読むことのできる、より重要なことは、弟子たちの言葉が裁判における証人による証言と同じように、主イエスについての「証言」であるということです。裁判における証人が自分の見た事実を証言するように、72人の弟子たちも自分自身が経験した主イエスによる救いの恵みを証言するのだということです。

ここで、72人の弟子たちが派遣されますが、彼らの役割はバプテスマのヨハネの役割とよく似ています。彼らの任務は、ここでは、先に行って、宿と食事の手配をすることではないのです。彼らの任務は先駆者としての任務なのです。メシアが来られる前に、人々の心を整えるのが、彼らの任務なのです。主イエスはエルサレムに向かう町々に弟子たちを派遣して、人々の心を準備するということをお命じになったのです。

■収穫のための働き手

2節を見ますと、『そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」』、と記されています。派遣に際して、主イエスの最初の命令は、「収穫の主に願いなさい。」ということです。どういう願いかと言いますと、「収穫のために働き手を送ってください」という祈りだというのです。働き手が足りないというのです。この祈りをすると、祈る人自身が、働き手となる必要があるのです。私は除外しますが、私以外の人が起こされますようにという祈りは通用しないというのです。ここでは、収穫というイメージが使われています。主イエスの時代のユダヤには、農業に従事する人が沢山おりましたので、収穫という言葉を使用すると、生き生きとそのイメージが伝わったのです。収穫という言葉は、比喩的な表現で、これは不信者の集団の中から、主イエスを信じる者を集めることです。これが収穫という言葉が表している意味なのです。

そして、主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。」とおっしゃられました。従って、収穫のための働き手が必要だと言うのです。主イエスは、何よりもまず弟子たちに「収穫は多い」と約束してくださっているのです。収穫は多い。つまり主イエスによる救いを受け入れ、信じる者がたくさん与えられるのです。別の言い方をすれば、伝道は決して虚しくならない、ということです。それ故、主イエスはできるだけ多くの人が収穫のための働きに参加することを願われたのです。

ここで、気をつけなくてはならないのは、主イエスのこの教えは、十字架以前の話なのです。これから、エルサレムに向かおうとしている途上の話なのです。この段階では、「収穫は多いが、働き手が少ない。」、だから収穫のための働き手が必要だと、主に願いなさいと、言われているのです。ここでは、緊急性が強調されているのです。そして、豊かな収穫が強調されているのです。時間がないということと、緊急性をもって、豊かな収穫を刈り取る必要があるということが語られているのです。ここに描かれている働き手のイメージは、既に豊かに実っている畑に派遣されて収穫だけをする臨時雇いの労働者です。つまり彼らが収穫するのは、自分で汗水たらして育てた実りではないのです。「収穫のための働き手」は、自分が育てたのではない作物の実りを収穫だけするのです。「収穫は多い」、それは彼らの働きによることではありません。では誰が働いたのか。それは収穫の主です。神様です。神様が、畑を耕して種を蒔くことから全てのことをして下さって、豊かな実りがそこにあるのです。しかし、時が迫っていて、働き手が必要だと言われているのです。

それに対して、私たちは十字架以降の時代に生きています。主イエスが十字架で亡くなられ、墓に葬られ、復活し、天に上り、聖霊が降り、教会が誕生して、約2000年経った時代に生きているのです。今の時代も、収穫は必要な働きです。しかし、現代の日本という異教社会を考えますときに、種まきの必要性を思わざるを得ません。種を蒔かなければ、芽は出てこず、収穫は得られないのです。主イエスの時代のユダヤでの収穫のイメージが、そのまま現代の日本に生きる私たちにそのまま適用できるかと言えば、そうはなかなか考えられないと思います。私たちは、私たちの日々の営みが、困難の中で、種蒔きに繋がっているか、そのことを思わずにはいられません。しかし、それでもなお主イエスは私たちに「収穫は多い」と力強く断言してくださっていると思います。伝道は決して虚しくならないと約束してくださっているのです。自分の力に頼るのではなく、この主イエスの約束を信じ、たとえ伝道が停滞しているように思えるときも、私たちは主イエスに信頼して、伝道し続けて行きたいと思います。

■狼の群れの中の小羊

3節には、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とあります。ここで、主イエスは良き羊飼いとして、72人の弟子たちを派遣するのですが、これは72人の小羊たちなのです。「行きなさい」と促しているのです。これは、宣教への参加を促す命令なのです。主イエスは、さあ立ち上がりなさい、さあ行きなさいと、語っておられるのです。72人の子羊である弟子たちは、危険な環境の中に、投げ込まれるのです。主イエスは、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とおっしゃられました。狼の中に、子羊を送り込むようなものだから、神様にのみ信頼する必要があると言うのです。主イエスは、「遣わす。」とおっしゃられました。この「遣わす。」という動詞は、ギリシア語で「アポステロー」と言います。名詞が「アポストロス」と言い、「使徒」という意味になります。従って、主イエスは、彼らを自分の代理人として派遣しているのです。主イエスの権威によって派遣された者は、主イエス自身が出て行っているのと同じことだと言うのです。

私たちは、福音を語るときに、この認識を持つことが非常に大切です。この信仰によって、魂に語りかけてゆくのです。

■財布も袋も履物も

4節には、『財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。』と、記されています。本日の聖書の箇所のミッションは短期間のミッションなのです。時はせまっている、緊急時のミッションなのですから、身軽に旅をする必要があるのです。主イエスは旅のために、十分な用意をせよとは、おっしゃらなかったのです。「財布も袋も履物も持って」、行かないというのは、誰かの援助に信頼するということなのです。旅の途中で出会う信者と神様に信頼するというのです。袋というのは、食物を入れて持ち歩く袋のことです。信者の援助と神様の助けに信頼して、宣教をしなさいということなのです。主イエスがこのことをおっしゃられるのは、主イエスご自身が主なる神様に信頼されておられたからです。それ故、弟子たちも神様に信頼する必要がある、というのです。「履物も持って行くな」というのは、裸足で行けというのではありません。これは、履物の替えを持って行くな、ということなのです。

「途中でだれにも挨拶をするな」というのは、主イエスが社交的であることを禁じた訳ではありません。古代の中東での習慣を知る必要があります。古代の中東では、挨拶が長々と続くことが、当たり前にあったのです。道で出会うと、長く言葉を交わすことがあったのです。これを戒めたのです。時間を浪費することは、緊急性が求められている本来のミッションの妨げになると言っているのです。

■祝福の言葉を語る

次に、5〜6節を見ると、『どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。』と記されています。弟子たちは、どこかの家に入るとき、『この家に平和があるように』と、祝福の言葉を語るように命じられました。『平和』とは、ヘブライ語で「シャローム」と言います。弟子たちを歓迎してくれるような家ならば、その『平和』は、その家にとどまるのです。その家には、「平和の子」、即ち、主イエスを信じる「信者」がいるのです。主イエスを信じる「信者」がいれば、「平和」がとどまると言うのです。弟子たちを受け入れてくれる人がいなければ、その「平和」は弟子たちに戻ってくるというのです。無駄にはなる訳ではないのです。

■働く者は報酬を受ける

7〜8節には、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、」とあります。「一つの家に泊まったら、その家にとどまり、家から家へと渡り歩くな」と言うのです、混ぜでしょうか?一つは、新しい家を探すのは、時間の浪費になるのです。さらに、その家の主人を侮辱することになるのです。当時の町々、村々の状況を考えてみると、閉鎖的で、小さなコミュニティーですので、外部から客が来たら、その客がどの家に滞在しているかということは、全て分かるのです。その人が、その家を離れて、別の家に行った場合に、なぜそうなったかということについて、直ぐに詮索が始まるのです。十分なもてなしをしない家だと、コミュニティーの中で批判されることになるのです。そういう事態を招いてはいけないというのが、「一つの家に泊まったら、その家にとどまり、家から家へと渡り歩くな」という命令の意味なのです。

さらに、彼らは「そこで出される物を食べ、また飲みなさい」と命じられています。気に入らないものがあっても、食物が与えられることに満足するべきだとおっしゃられるのです。そこで出されたものを食べたり、飲んだりして、感謝して、交わりをする、それは伝道者の最低限のマナーだと言うことができます。主の働き人が物質的な報酬に預かることは当然のことであると、主イエスは語っておられます。ここで、気をつけなくてはならないのは、ユダヤ人たちには食べることを避けることが求められる食物規定があったということです。日本人には分かりにくいことですが、不浄とされた食物があるのです。全ての家が律法で定められた食物規定を守っているわけではないのです。出された食物が、ユダヤ人にとって不浄な食物である可能性もあるのです。その場合にはどうするのでしょうか?主イエスは、「そこで出される物を食べ、また飲みなさい。」と語っています。すなわち、不浄食物であっても、食べて良いと言うのです。ここで、主イエスは、食物に清いものや、汚れたものがあるわけではないということを宣言しておられるのです。

マルコによる福音書7章18〜19節には、『イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」』と、記されています。従って、ある家に泊まって、不浄食物が出されても、主イエスが全ての食物を清いとされたのだから、食べて良いのだと、語っておられるのです。

■「神の国はあなたがたに近づいた」と伝えるときに

9節を見ますと、『その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。』と記されています。72人の弟子たちの奉仕は、主イエスと12弟子たちが始めた奉仕を継続しています。奉仕の内容は、『病人をいやす』ということです。特にメッセージを語る前に、病人のいやしを行っているのです。主イエスが十字架に架かる前の緊急性を求められる奉仕に対する命令に於いて、72人の弟子たちはメッセージを語る前に、まず病人をいやすということを行っているのです。なぜかと言いますと、メッセージの信頼性が増すからです。72人の弟子たちが語るべきメッセージは、『神の国はあなたがたに近づいた』ということです。これは、メシアは来られた、ナザレのイエスがその方である、だから神の国は近づいたというのが、このときのメッセージなのです。私たちが、今、伝える福音の内容とは異なっているのです。旧約聖書が予言していた「神の国」、メシア的王国は近づいたというのが、このときの福音なのです。近づいたとありますから、まだ始まっていないのです。いつ始まるのでしょうか?それは、ユダヤ人たちが主イエスを信じたら、神の国が始まるのです。しかし、ユダヤ人たちはまだ主イエスを信じていないのです。彼らが主イエスを信じるまでは、神の国は始まらないのです。

終末論的には、大艱難時代を経て、最後にユダヤ人たちが主イエスを信じ、彼らの祈りに応えて、主イエスが地上に再臨され、神の国が始まるのです。この段階では、まだ神の国は始まっていないのです。しかし、主イエスが来られたので、主イエスを信じたら、神の国が始まることになるという、極めて神の国に近いところにいるというのが、弟子たちが伝えたメッセージなのです。

■主イエスの厳しい言葉

10〜11節には、『しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。』、このように記されています。主イエスを受け入れない町が、当然、出てくるのです。受け入れない町があれば、『広場に出て』というのは、公にという意味です。そして、主イエスは公に不信仰を糾弾する2つの行為、これはユダヤ人であれば、誰もが理解した行為を行いなさいと言うのです。一つ目は、その町を糾弾する言葉を言いながら、「足についたこの町の埃さえも払い落とす」という、象徴的な行為を行いなさいと言うのです。2つ目は、『しかし、神の国が近づいたことを知れ』と宣言する、ということです。これは、裁きが下るという予言です。「神の国が近づいた」ということを聞いたのに、信じなかった。そのことを覚えておきなさない。不信仰の上に、裁きが下るという宣言なのです。

そのことは12節の「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」というお言葉にも現されています。そしてそれが13節以下でさらに展開されています。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムはいずれもガリラヤの町です。主イエスとその弟子たちによって、これらの町では神の国が宣べ伝えられ、奇跡が行なわれました。しかし、悔い改めて主イエスを受け入れることがありませんでした。それらの町は、あのソドムと同じように神様の怒りを受けると宣言されています。

主イエスはそのような人間たちの、私たちの姿を心から嘆き悲しんでおられます。そして、そのように悔い改めようとしない者たちには、神様の裁きにおいて厳しい罰が与えられるのだということを語っておられるのです。説教は、聖書に語られている福音、神様の救いの知らせ、その喜びの知らせを語るものです。しかしこの箇所には、悔い改めない者たちへの厳しい罰が予告されているのです。いったいここからどのような福音が、救いの知らせが聞き得るのだろうかと途方に暮れるのです。ここでの主イエスのお言葉は、私たちにとって、やさしい恵みの言葉と言うよりも、厳しい威嚇の言葉です。悔い改めなければ、厳しい罰を受けることになるぞと主イエスは私たちに警告を与えておられるのです。この警告を私たちはしっかりと聞かなければならないでしょう。悔い改めないことは、神様の前に跪くことを拒むこと、神様を神様として敬い従うことを拒絶することです。それは神の裁き受けるべきこととなります。

 主イエスは、そのような町の人々が、わたしの力ある言葉とわざを見聞きしたならば、悔い改めるのだと言われたのです。その悔い改めを引き起こすのは、主イエスの力あるみ言葉とみ業なのです。主イエスのみ言葉とみ業とは、それだけの力をもったものなのだ、とうてい悔い改めることなどあり得ないような者たちをも、悔い改めさせ、神様の前に跪かせ、罪を認めて赦してくださいと願わせるような力をそれは持っているのだ、ということが語られているのです。あなたがたが今見聞きしている主イエスのみ言葉とみ業とは、そのように人々を悔い改めさせ、新しくする力を持っている。だから、あなたがただって悔い改めることができる、悔い改めて欲しい、主イエスはそう語りかけておられるのです。

■静岡地方裁判所浜松支部での出来事

1995年9月26日、静岡地方裁判所浜松支部での出来事です。自動車の中に覚せい剤100グラムを隠し持っていた男の裁判が行われました。覚せい剤の1回の使用量は平均で約0.03グラムですから、実に3千回分以上にも相当するとんでもない所持量だったのです。恐らく他人に密売する目的で所持していたのだと思います。

判決を下した裁判官の言葉です。「私は求刑通りの判決を言い渡すつもりでしたが、法廷に入って来るあなたのお父さんの姿を見て減刑しました。」

情状証人として出廷した父親のどのような姿を見て、裁判官が心を動かされたのか、そこまでは明らかにされていません。しかし、裁判官は被告の父親の姿を見て減刑したのです。

父なる神様は清い方です。罪のない方です。罪を罰せずに見逃すことは出来ません。しかし、神様の御子である主イエス・キリストは、激しく鞭打たれ、血を流し、十字架にかけられ、渇きと痛みと窒息寸前の苦しみの中で「父よ彼らを赦してください」と、過去、現在、未来の全ての罪人の為に祈られたのです。そのようなご自分の御子主イエス・キリストの姿をご覧になって、父なる神様の心が動かされたのです。

そのように、神様の救いにあずかるか、それとも裁きを受けるか、を分けるような働きを、主イエスの先駆けとして派遣される信仰者はするのです。それらをまとめているのが16節です。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。これは驚くべき言葉です。私たちの語る言葉が、主イエスのお言葉と、さらには主イエスをお遣わしになった父なる神様のお言葉と重ね合わされています。そんな大それたことはあり得ない、私たちにそのような権威ある言葉を語ることなどできるはずがない、と私たちは思います。しかし、神様が豊かな恵みの力を発揮し、主イエスの十字架と復活と昇天による救いを実現して下さり、私たちを、自分で育てたのではない実りを刈り入れる収穫のための働き手として派遣して下さることを信じるなら、私たちは、私たちを通して神様が語って下さり、私たちを通して主イエスの恵みのみ業が行われるという驚くべき出来事を体験していくのです。

それでは、お祈り致します。